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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・25
問20・・3 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用される範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
<続き> では、神不在のままで人間は安らかでいられるか、という問題があります。それは人間は今あるままでしかないものの、そういう自分で本当に安心出来るかと言う問題です。規範はあってもそれが究極的普遍的な規範と言える根拠があるか、仮にあったとしても人間はそれを守り得るか、歴史に照らし、自己自身に即して言えば確信持って「然り」とは言えないのではないか。
そういう不確かな不安に似たものを存在の根底に覚えているところに、今日の人間もまたすべて「エデンの東」にいるのではないかと思います。しかもそこに住み慣れてしまうと、エデンの園を思い出すこともなくなっているのが実状ではないかと思います。しかし、エデンへの復帰を神の側から求めておられるというのも実状であります。
エデンが楽園であったのは、そこに神が主人公として厳然としておられ、人間がその神を神として崇めていたからですが、それは神による規範が「禁断の木の実からは取って食べてはならない」という戒めとして明らかにされており、人間がその戒めを守っていたからであります。聖書がいう「楽園」とは、そこに神が主人公として厳存しておられるところです。人間が自分の欲望を満足させて良い気分に浸っていられるところではありません。神が主人公としておられることを窮屈に感じたり煩わしく思ったりすることがあるかも知れませんが、それは人間の見当違いであり弱さの証拠であって、人間がすべてとなって営まれてきた歴史を見ればその結果は明らかです。
この神による規範内容、即ち「禁断の木の実」とは何かが詳しく示されたのが、「モーセの十戒」と呼ばれるものであるといえます。これはいわばイスラエル民族の憲法ともいうべきものでありまして、その施行細則を含めると膨大なものになりますが、聖書ではこれを「律法」と呼んでいます。
<1月のラジオ放送予定>
1月 4日 原科 浩 (日本キリスト改革派名古屋教会長老)
11日 原科 浩 (日本キリスト改革派名古屋教会長老)
18日 伊藤治郎 (日本キリスト改革派四日市教会長老)
25日 伊藤治郎 (日本キリスト改革派四日市教会長老)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」