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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・26
問20・・4 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
<答えの続き> 詳しいことは省きますが「十戒」の第一戒は、神が「わたしのほか何者をも神としてはならない」ということです。こういう戒めを聞くと「聖書の神は随分独占欲や支配欲の強い神様だなあ」みたいに思う人がいることでしょう。特に日本人の多くがそうであるように、多神教世界と言われるように多神であることが自明の前提のようになっているところでは、「わたし」とはっきり自己表明をするような一神を知りませんから、こういう戒めとして聞こえないのは当然だと思います。
しかし、聖書において人間に語りかける神は「わたしはあなたに言う 」という風に、人格的に関わって、その関わりの中において人間を生かそうとする神ですから、この神との関係を破ることがないように求めてやまないのです。聖書の中には、神が「わたしは妬む神である」と言っているところがあります。「神が妬むなんてみっともない」という人がいるかも知れませんが、夫や妻の不倫行為に対して妬むのは、相手を愛しているからです。
また、聖書の中には神の「怒り」が随所に示されています。これも「神が怒るなんて神様らしくない」と言われそうですが、神が怒るのは人間に対して真剣に関わっているからです。相手に真剣に関わろうとしない人には怒りなんてものは出てきません。
以上のことから言って、聖書の神は多神教世界で言うところの神とは違うのです。断っておきますが、これは優劣比較というような次元のことではありません。神は唯一の神としてわれわれに語りかけられるというのが、聖書において明らかにされている啓示の神である、ということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2月のラジオ放送予定>
2月 1日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
8日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
15日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
22日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」