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ビルマ
戦犯者の獄中記 (47) 遠山良作 著
昭和22年
6月19日
―同期生―・・1・・
北支那憲兵教習隊第4期卒業の同期生たちが「つばくろ会」を結成した。会の目的は「戦争犠牲者の遺家族及び戦犯者の留守家族を救済し、相互に助け合って、新しい祖国の建設に邁進する」ことを綱領に掲げての発足である。
今までの独房にいる私たちのために残り少ない私物を監視兵とタバコに交換しては差し入れてくれた。また寄せ書きをして激励もしてくれた。いま家族まで援助してくれるというのである。思えば部隊から十数名の憲兵志願者の内か ら高井君と私が合格し、昭和十年十二月北京の憲兵教習隊に入隊した。当時の生活が今も走馬燈のように思い出となって瞼に浮かぶ。
冬の北京は寒く、零下二十度以下になる。寒さと、厳しい訓練のために私はついに急性肺炎で倒れ、意識不明のまま北京陸軍病院の重病棟の個室に入院した。担当医師は山野軍医と看護婦は村崎恵都子という、若い看護婦さんであった。病院側の手厚い看護のお蔭で、四十度以上もあった熱が五日目には三十八度まで下がり、婦長さんは「もう大丈夫です」と言われた。死の一歩手前をさまよい続けた私の命は助けられた。
入院一カ月、退院する日のことである。村崎看護婦は私に次のことを話してくれた。「私は今までに五人の肺炎患者の兵隊さんを看護しました。二人はこの病棟で死亡しました。二人は全快せぬまま病院船で内地に帰る途中、その一人は病気で帰ることは軍人の恥である、との理由で病院船から玄海灘に身を投じて自殺しました。全快してこの病棟から退院できたのはあなた一人です」と言って、泣いて退院を喜んでくれた。
退院する私は、まだ上衣を着る時などは胸のあたりが痛くて我慢出来ないほどであったが、無理をして退院したので体力も十分でなく、実技(武術等)の訓練などは二ヶ月ほど免除された。疲れのためか教室でもよく居眠りをし、隣のS君が「教官が見ているぞ」と膝をつねって注意してくれたこともしばしばであった。だが入院の遅れを取り戻すために懸命に勉強した。
消灯後に頭から毛布を被り外部に灯りが漏れないようにして、懐中電灯の光で支那語の勉強もした。ある時は寒さを耐えて、床から抜け出して便所の薄暗い豆電球の光を頼りに法律の条文を暗記したこともあった。そのために、すっかり眼を悪くして眼鏡を掛けなければならなくなったのもそれからである。
(写真は青島隊当時の筆者)
*この文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」