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小閑記
なぜ兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
=マタイ7:3=
他人の欠点・短所を見るのは簡単ですが、自分の欠点・短所を見るのは難しい
と言われます。子供の時からその人生の終わりに至るまで、この悪の力は私たちを取り囲んでいます。国家で、家庭で、不和を生じさせます。私たちはしばしば、自分の欠点でなく他人(他国)の欠点をみるのがやさしいのは何故であろうと思うことがあります。
私たちは正しくありたいと務めますが、自分が正しいと判断する視点・観点など持つことは不可能です。人の人生のあり方を研究する才能は人間は豊かに持っていますが、自分を知ることは出来ません。これもまた、事実です。
自分自身の人格や、性格の欠点を明らかに見て、調べることの出来る人は、素晴らしい人であり、高い知恵を得ている人といえます。そうさせたのは、実は、自分自身の愚かさ、欠点を知った人です。愚かさを知る知恵は大きな進歩と言えます。
では、どうすればこの愚かさを知る知恵に出会うのでしょうか。まず、自分の欠点よりも他の人の欠点は、よく分かるものがと言うことを覚えていることです。同時に、もっとも困難なことは、一つは自分の目の梁を見出すことであることを覚えていることです。こういうふうに自分自身が自覚したならば、自分の真の姿を知りたいと望むものには有益です。その上に、謙遜であって、神のみ言葉とみ霊から来る光と神の叱りとを受け入れるならば、自分と自分の欠点を意識させられ直したいと願うでしょう。
他の人への寛容は、自分の欠点を認めることから始まるのです。しかし、現実の私たちは、自分の欠点・短所を見ても見ぬ振りをし、値引きし、理由を探し、他の人と比較し認めない自分であるのです。神の前に、自分の欠点・短所を見ている振りをするのが偽善者であることを、認め続けるところに、希望のあることもまた事実です。
上河原立雄
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」