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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・27
問20・・5 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 十戒の始めの4戒が神に関すること、あとの6戒が人間に関することですが、その内容は「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」など、別にモーセの十戒でなくてもどこでも誰にでも通用するような戒めなのです。要するにこういうことをきちんと守っておれば、この世の中は順調に平和にやっていけると認められることばかりなのです。
人間同士間でもこういうことは人倫の基本的なこととして認められるところですが、これが神からの戒めとして告げられているということは、神は人間相互間の平和と幸いを願ってやまないことから厳命として発せられているところに、この戒めに含まれている特別な性格があります。
少し言葉を換えて言うなら、これは「そんなことしないでおくれ」「大事なあなたたちにそんなことをさせてたまるか」「絶対にやってはいけないよ」と言う、親の子に対する切々な愛情から出る声に匹敵するものなのです。
戒めと言うものが、本来そういう神の人間に対する深い配慮と愛から出ているものであることが分かれば、「殺すな」と命令形で言われていることも、「殺すなんてことはできっこありません」とか「盗まなくてはならないようなことはありません」とか「姦淫なんてする必要のないことです」という風に、神に対する当然の応答としての、自戒となる性格のものでもあります。
アダムとエバは禁断の木の実を取って食べなくても幸せに生きておられたのです。エデンが楽園であったのはそういう理由によっていたのでした。ところが、残念なことに、彼らの幸せを言葉巧みに奪い取ろうとした奴がいて、彼らはまんまとその言葉に乗せられて、禁断を犯してしまいました。神に従わせないようにすることで生きているサタンの誘惑に引っかかりました。これが罪を犯すということです。
ですから戒めがなければ罪を犯すということはあり得ません。戒めがあるということは、そういう意味ではこれに背くことへと誘惑するものでもあります。戒めがなかったなら、罪を犯すということはあり得ません。また戒めを犯すなら、戒めがその罪を告発することになります。戒めというものは一方で人間に神の祝福を保証するものとなりますが、他方では罪を告発する呪いとなります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<3月のラジオ放送予定>
3月 1日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
8日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
15日 池田慎平 (日本基督教団金城教会牧師)
22日 池田慎平 (日本基督教団金城教会牧師)
29日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」