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ビルマ
戦犯者の獄中記 (48) 遠山良作 著
昭和22年
6月19日
―同期生―・・2・・
これ程まで勉強しなければならない理由は、成績の悪い者は元の部隊に返されるからであった。休日の日曜日なども外出する者は少なく、誰の顔を見ても目ばかりギョロギョロと光っていた。
5月には教習隊創立記念日行事があった。余興に「酒は涙か吐息か」の劇で、光江の相手役、女給の役で私も出演したことがあった。外部からお祝いのために沢山の人が来た。その中に混じって美しく着飾った女給さんや芸妓さんの艶姿は眩ゆかった。彼女たちから着物の着付けや、化粧をした私の女装の女役に喝采されたこともあった。
思い出の多い教習隊8カ月の生活を終えて、真新しい憲兵の腕章を巻いて、喜びと希望に胸ふくらませつつ、各々命じられた任地に赴任したことが昨日のように思える。
私は仲の良かったS君と共に青島(チンタヲ)隊に赴任し、ビルマにも一緒に来たが隊が違い、会うこともなかった。風の便りに彼は戦死したとも聞いていたが、S君とこの刑務所で偶然にも会うことが出来た。
私が「モールメン」から移されて間もない時である。棚一つ隔てた隣りの棟に英軍の捕虜(終戦前に英軍に捉えられた日本兵)が収容されていた。その中に彼を発見した。彼等は私たちと話すことを好まなかったので、私は大声で「S君」と呼んだ。彼は監視兵の隙を見て棚の近くに来てくれた。そして「戦闘中にマラリヤと赤痢のために人事不省に陥っていたところを部落民に捕えられて、英軍に引き渡されて捕虜になった」と話してくれた。
彼はきっと悩んだことだと思う。だが、戦争も終わりお互いに無事であったことを共に喜んだ。われわれ戦犯容疑者と違って、彼等の給与は格段に良かった。煙草やチーズなどを棚の外から時折り投げ入れてくれた。その後、私が有罪になり、独房に移されてから彼は一度も連絡してくれなかった。彼にはもう昔の友情はなくなった。
やはり英軍の捕虜である引け目からかも知れないが、生死を共にし、戦場で結ばれた友情だけに残念である。彼は。第一回の帰還船で帰って行った。青島隊で共に勤務した同期生の絹村も死んだ。小林もこの間5年の刑を受けてこの独房に来た。
戦犯容疑者として取調べのために残されている同期生はまだ20数名いる。北支那からは100名近い同期生がビルマに派遣されて来たのに幾人の者が祖国の土を踏むことが出来るであろうか。
一羽のつばめ
日本に生まれたつばめの群れは 夢の国ビルマに来た
ここは砲火の飛び交う戦場である そのために多くの仲間は死んだ
やがて戦争も終わり 日本に帰る日が来たのに
傷ついた一羽のつばめは飛ぶ力さえない
雨しぶく木陰に身をよせて 励ます仲間たちに言った
「日本の田や畑も荒れている つばめが来てくれる日を待っている
あの美しい自由の天地で 益鳥としての働きを」と
降りしぶく空を仰いだ
私はこの詩を書いて、同期生たちに送った。
「註」「急性肺炎」は特効薬ペニシリンが発見されるまでは死亡率の高い病気であった。英国のチャーチル首相の肺炎がこの新薬発見で助かったことは有名な話である。
*この文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」