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さんびか物語・・・12・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・11
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌121番 馬槽(まぶね)になかに
<神様のみ言葉>
「イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たまま外へ出られると、ピラトは彼らに言った、『見よ、この人だ』」。
~ヨハネによる福音書19章5節~
主イエス・キリストのこの世での人生をつぶさに、また、その神性を美しく歌っている讃美歌の一つであります。
この‘馬槽のなかに’の讃美歌は由木康の一番有名な作品と言えましょう。彼については、讃美歌282番をご参考になさっていただけますなら幸いです。
この作品が作られたことについてですが、彼が近代神学の影響をうけ(1923)、イエスの神性について思い悩んでいた時、イエスの神性がイエス・キリストのこの世におられた人性のうちに包まれていること、また、それを通して輝き出ていることを示され、一つの確信に至った時の心境を自由詩に表現し、「この人を見よ」と題して彼の個人雑誌「泉」に発表したのであります。
讃美歌121番の曲MABUNEの作者は、1891年5月18日に
また、15年間の留学を終えて帰国し1927年から明治学院音楽主任教授になりました。戦後の1948年から、キリスト教音楽校講師になり、現在もご活躍とのことです。彼の作品にはオラトリ‘ヨブ’があります。1954年版の讃美歌におさめられているMABUNEは、彼が由木康の‘馬槽のなかに’のために1930年に作曲したメロデーでありまして、それは、昭和6年版(1931)に収録されたもので、この讃美歌集に取り入れられた日本人の作曲した旋律の中で、最も歌われている曲の一つであるそうです。この讃美歌は和声独特のものとして、今日に至るまで日本で非常に愛唱されている讃美歌であります。
讃美歌121番の中心的テーマは‘この人を見よ’という言葉にあると思います。わずか4節の中で作詞者は5回もこの短い、しかも人目を引くようにという願いをもって私たちに知らせようとしています。では、なぜ‘この人’を見なければならないのでしょうか。由木康はこの作品の中で、このような基本的・根本的な質問に対して、わかりやすく、しかも適切に答えを与えるばかりでなく、すべての人が知らなければならない事実をもここでわかりやすく、美しく歌っています。
<121>
1 馬槽のなかに うぶごえあげ
木工の家に ひととなりて
貧しきうれい 生くるなやみ
つぶさにまめし この人を見よ。
1節では、主イエス・キリストのこの世での貧しい人性―言い換えますと―キリストの低い状態―について歌っています。神であられる主が、‘馬槽のなかに’人の子として産声をあげられたのです。
ルカの福音書2章7節には、「宿屋には彼らのいる場所がなかったので、母のマリヤはその初子を布でくるんで、飼葉おけに寝かせた」、とその様子を記しています。また、‘木工の家に ひととなりて’というのは、キリストの少年時代、ナザレの貧しい大工の家の子としての生活を歌っています 。
主イエス・キリストは「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」と言った律法学者に対して、ご自分について「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と答えられました(マタイ8:19~20)。
事実、貧しさ、うれい、疲れ、悩みをもみな味わい給うたお方であられます。イザヤ書53章3~4節には「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病いを知っていた。・・・彼は私たちの病いを負い、私たちの痛みをになった」と記されています。
この私たちの一切の重荷をになって下さった主イエス・キリストなる‘この人’を見ずして何を見よ!と言うのでしょうか。私たちの罪をにない救わんがための主イエス・キリストの恵みと愛に対して、自分の罪のため、という事実に誰一人知らぬ顔をしていることは出来ません。
2 食するひまも うちわすれて
しいたげられし ひとをたずね
友なきものの 友となりて
こころくだきし この人を見よ。
2節では、キリストの忙しい伝道中に起こった、いろいろの出来事について歌っています。たとえば、イエス様が山に登られ、12弟子を任命されてから家に戻られると、また大勢の人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかったことが、マルコの福音書3章20節に記されています。また、一般のユダヤ人から軽蔑されていた取税人マタイやザアカイの家をお訪ねになり、そこで共に食事をなさった例もございました(19:1~10)。
このように、人々から嫌われている者や聖書の中に多く記されている病み人や罪と悲惨の中にある人々に対して、本当に‘友なきものの友となり’いつくしみ深き友なるイエス様として、自からの心をくだきご心配くださる‘この人を見よ’であります。
パリサイ派の律法学者たちは、イエス様が罪人や取税人たちと一緒に食事をしておられるのを見て、弟子たちに「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」とつぶやきました(マルコ2:16)。このつぶやきに対してイエス様は「・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」とお答えになりました(2:17)。
この救い主なるイエス様こそ、「この人」を見よ、であります。
3 すべてのものを あたえしすえ
死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ
敵をゆるしし この人を見よ。
4 この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ。
3節で歌っていますことはる、主イエス・キリストの苦しい贖いの十字架の死についてであります。十字架にはりつけにされた主は、人々に愛といつくしみをもって人を導きたまいました。しかし、そのむくいは、何であったでしょうか。人々からの感謝でしょうか。そうではなく、人々のそむきとそしりとつばきでした。このような忘恩な者、かたくなな者に対し、また、実際に十字架につけた者に対して、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と叫ばれました(ルカ23:34)。
この主イエス・キリストの愛と赦しは、どんなにか大きく深く素晴らしいことでしょう。この‘敵をゆるすこよなき愛’は主イエス・キリストを外にしては見ることが出来ません。本当に‘この人’を見よ、であります。
4節では、‘この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれている’と歌っています。そうして、再び‘この人を見よ’と繰り返して言っています。どうしてでしょうか。それは、人を赦し、すべての重荷を負うて下さる方、この人は、実に活ける神であられるからにほかなりません。人の目には見えない神様を主イエス・キリストの人々になさった、み業を見ることによって、人ではあっても神様であり、神様であっても人なるキリストを見ることが出来るからです。
‘この人こそ、人となりたる、活ける神なれ’との歌声は、この讃美歌のもっとも美しく力強い讃美の歌声であるとともに、主イエス・キリストの神性が、比類なき栄光をもって照り輝いています。
「この方は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは、この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵み
とまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)。
この聖句こそ、受肉のキリストなるイエス様を示し、神ご自身であられることを示しています。私たちは、この神であり人であられるキリストのみもとに帰り、キリストが神ご自身であることを信じ、その贖いを受け入れて、生きてはたらき給う永遠の神様と共に日を送りましょう。
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」