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解説 ウエストミンスター信仰告白 (33)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第16章 よきわざについて・・1・・
1 よきわざとは、神がそのきよいみ言葉において命じられたものだけであって(1)、人間がみ言葉の保証なしに、盲目的熱心から、または何か良い意図を口実にして案出するものではない(2)。
1 ミカ6:8、ロマ12:2、ヘブル13:21
2 マタイ15:9、イザヤ29:13、Ⅰペテロ1:18、ロマ10:2、ヨハネ16:2、サムエル上15:21-23
一 ここでは「神ひとりのほかによい者はいない」(マルコ10:18)、「あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る」(ヤコブ1:17)の原理が言われている。よい木でなければよい実を結ばないのであるから、そして、人間の性質は全的に腐敗しているから、良心的行為だとか、善意の行為などと言ったところで、それは、まったき善行(よきわざ)ではないのである。ルターはが「聖書に禁じられていなければ行ってもよい」と考えるのに対して、改革派教会では「聖書に命じられていないことはいけない」と言うのである。
それは、わたしたちを万事控え目にさせるためではない。「しないことの罪」を考えると消極策は、むしろより多くの罪を犯すことである。この告白が言おうとするところは、人間が「聖書」なしに、自立的に行動することの危険を戒めているのである。聖書が信仰と生活の唯一無謬の規準なのであって、いいかげんな自己流に、この方がよいなどと主張することは、自分のみでなく、他人をも滅びの子とすることである。よく聖書の真意をたしかめ、その命令に従うようにしなければならない。
もちろん、不明瞭だからと捨てておくことはいけない。また、かならずしも明言されていないが、含まれている事柄がたくさんあるから、健全な推理をもって、原理を実際に適用することにも忠実・勤勉でなくてはならない。
2 神の戒めに服従してなされるこれらのよきわざは、真の生きた信仰の結実またあかしである(1)。それによって信者は、自分の感謝を表わし(2)、確信を強め(3)、兄弟の徳をたて(4)、福音の告白を飾り(5)、敵の口を封じ(6)、また神の栄光をあらわす(7)。信者はよきわざをするようにキリスト・イエスにあって造られた神の作品であって(8)、きよきに至る実を結んで、終極である永遠の命をもつようになるのである(9)。
1 ヤコブ2:18,22
2 詩116:12,13、Ⅰペテロ2:9
3 Ⅰヨハネ2:3,5、Ⅱペテロ1:5-10
4 Ⅱコリント9:2、マタイ5:16
5 テトス2:5,9-12、Ⅰテモテ6:1
6 Ⅰペテロ2:15
7 Ⅰペテロ2:12、ピリピ1:11、ヨハネ15:8
8 エペソ2:10
9 ロマ6:22
二 ここでは、聖書のいたるところで教えられている善行(よきわざ)の意義が列記されている。ヤコブの手紙2章13節、ペテロの第一の手紙2章9節、ヨハネの第一の手紙2章3節、ペテロの第の手紙1章5節、テトスへの手紙2章5節、ローマ人への手紙6章22節などは是非お読みいただきたいところである。これらの聖句で言おうとしている根本的な意味は、善行が救いの恵みから生じ、それは自分の心情のみでなく、他の者の信仰的まなこにも、恵みを証しするものであり、第二原因として神の救いのみ業の一端を構成すると言うことであって、功績的な意義、すなわち、この善行が救われることの原因や条件となるのではないということである。
3 彼らがよきわざをする能力は、全然自分自身によるものではなくて、全くキリストのみたまからのものである(1)。そして彼らがよきわざをすることができるためには、すでに受けている恵みのほかに、彼らのうちに働いて、み心のままに願いを起こさせ実現に至らせる同じみたまの実際の作用が必要である(2)。しかし、みたまの特別な活動がなければ、何の義務も果たす責任がないかのように、ここで怠惰になってしまってはならない。むしろ彼らは、自分の中にある神の恵みをかき立てることに勤勉でなければならない(3)。
1 ヨハネ15:4-6(*)、エゼキエル36:26,27
*ヨハネ15:4,5が正しい。
2 ピリピ2:13、ピリピ4:13、Ⅱコリント3:5
3 ピリピ2:12、ヘブル6:11,12、Ⅱペテロ1:3,5,10,11、
イザヤ64:6(7)、Ⅱテモテ1:6、使徒26:6,7、ユダ20,21
三 ここでわたしたちは、「ただ恵みのみ」の教えと「祈り深い努力の必要」との有神論的事情を深く考えなければならない。「ただ恵みのみ」が、無責任な「果報は寝て待て」的な心境と同じものではなく、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)のすすめと深い関係にあることを知らなければならない。
この二つは、アルミニアン的協力関係ではない。第一原因と第二原因との関係である。祈りは手段であるが、人間が自分の発意で神にさそいをかけるのではなく、神がわたしたちのうちにこのような手段をとらせ、それを通して目的を達成されるのである。
祈りを、第二原因として祈らせれるは神である。救いの恵みは奇跡である。祈りは奇跡である。そして祈りを通して救われる神の恵みは、まさに全知全能の神のなされる奇跡ある。そして有神論という事実を前提とするとき、このことこそ実に有神論的な事実なのである。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
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「緑のまきば」
「聖霊とその働き」