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小閑記
そして、その十字架の血によって平和をつくり―彼によってご自身と和解させて下さったのである。
=コロサイ1:20=
悲劇の多くに悲しみの血が流されるのが、人間の歴史と言えばそれまでのことになってしまうでしよう。イエスの血が罪の贖いと赦しの根拠であると言う教えに対して、違和感や嫌悪を覚える人もいるでしょう。
人は神がなだめられるために血を要求すると言うことに、納得し難い気持ちを持つ人もおられるでしょう。しかし、神の言葉の中に次のように言われていることを、確りと読むべきです。
「血を流すことなしには、罪のゆるしはありえない」。旧約聖書の創世記のアベルの血について読む聖書の第一の書から、新約聖書の小羊の讃美が響きわたる最後のヨハネの黙示録の書に至るまで、神の言葉は「その血によって、神のためにわたしたちをあがなった」主に、私たちの唯一の救いの根拠があると語っております。
血は人体の生命であるように、血は聖書の生命でもあります。聖書の中から血を取り去れば、神よりの命はなくなります。そればかりではありません。キリストの血の贖いと救いへの信仰を持たずに自分をキリスト者と考える者は、神による命は持っておりません。誰も救い尽くすことの出来ない人々、全ての民族、国民、言語の中から救われて、神のみ前に立つ人々は、その衣を小羊の血で洗い、白くしたからこそ、そこにいるのです。
血の言葉が生活や、教えや信仰から離れてしまう日々、その程度だけ私たちの内や外のキリスト者としての生活は青白く、死んだものとなります。生けるキリストの代わりに、私たちは信仰的不安を手に入れるのです。天国に行きたいと望む人に、私たちを神と和解させ、全ての罪からきよめるための血の信仰を決して捨ててはならないのです。
<515>
1 「十字架の血に きよめぬれば、
来よ」との御声を われはきけり。
(おりかえし)
主よ、われは いまぞゆく、
十字架の血にて きよめたまえ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」