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今月のことば
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。
=ローマ8:6=
この言葉は、私たちにとって、またこの言葉を読む人にとって、「いのち」と「死」についての問い掛けです。また私たちの思いが「肉の思い」であるか「霊の思い」であるかも含んでいます。それでは、私たちは「いのち」と「死」を、自分の手の中に持っていると思って生活しているでしょうか。むしろ、「肉の思い」の中にいるのが日々で、改めで「いのち」と「死」についての責任を持っているとしたら、事は重大です。
大切な節目があります。私たちが自分の心に「霊の思い」と「肉の思い」の前に立っていると気付くその時です。日々を省み、反省して得るものではない・・・とするなら、その節目を探そうではありませんか。
「霊の思い」は、まず第一に、様々の美しく立派な「あるいは美しいものに憧れ、心奪われる」性向において示されるのではなく、むしろ第一には、また本来は、単純に、私が自分自身を助けるのか、あるいは神の助けを必要としているか、と言う点に示されます。自分自身は強いか、あるいは神の力と支援を必要としているかを謙虚に思えるかの中に示されます。また、神が援助者・救い主をこの世に遣わされなかった場合に、自己救済に赴くか、あるいは絶望し、破滅した者になるかでもあります。
どうでしょうか。自分には自分を救いえないというのが「肉の自分」であると知る時、諦めるでしょうか。「われわれの造られたさま」(詩篇103:14)を知る機会がある時、見過ごしますか。「自分の理性や道徳性、意志の力や生来の持っている宗教的な性向に留まりますか」。「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)と聖書(パウロ)は語ります。
人は生きます。しかし、その行き先に何が待っているのでしょうか。「いのち?平安?」それとも「死?滅び・・・」。
「キリストにお会いしてから」
戸をたたく しめきっていた
部屋に入って来られた
キリストにお会いしてから
キリストにお会いしてから
その両手と 脇腹に
傷跡がいたいたしい
キリストにお会いしてから
私の心が 変った
信じない者に ならずに
信じなさいといわれた
キリストにお会いしてから
私の心が 変った
お会いしてから 水野源三
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」