[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・28
問20・・6 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 戒めは神からのものでありますから、戒めに背くことは、神に従うことをやめることになります。それは神よりも自分が主人公になるということです。主人公を持っていなければこういう事態は起こり得ません。罪を犯したという罪意識は起こりません。クリスチャンが罪の赦しを神に求めるのが何故か分からないと言う人は、自分が主人公になっているから、神を主人公とし、神の戒めに従うことが楽園にいる保障となっているということが分らないためにそう言うのでありまして、無理からぬところであります。こういう人に罪とはなんであるからを分かって貰おうとすれば、神のことを知って貰わなくてはなりません。
キリストが語られた話の中で「『放蕩息子』のたとえ」と呼ばれている有名な話であります。」
それは次のような話です。
「ある人に二人の息子がいた。弟が父に『俺が貰う分の財産は今すぐにくれ』とせっつくので、父親は相続分の生前贈与をした。貰った息子はそれを全部カネに替えて、『はい、さようなら』と、父親の干渉から全く離れた遠くへ行って、そこで、自分の好き勝手な生活をした。遂にカネがなくなった。放蕩にあけくれていた彼を雇ってくれる人はなく、やっとのこと当時みんなから一番嫌われていた豚飼いの仕事を与えられたが、腹が減ってたまらず、豚の餌を食べたいと思うほどになった。惨めさの極限に達したのだ。その時彼は我に返った。『どうして俺はこんなにまで落ちぶれ果てたんだろう』と思ったのだ。そうして得た結論は『俺がオヤジのことなんか構わずに俺の勝手に生き始めたところから、全てが狂っちゃったんだ。俺の今の惨めさはそのツケだ。オヤジのところへ帰れば、こんなひもじい思いはしなくても済む。あそこへ帰りたい。しかし、この俺が、どの面下げて帰れるか。身の程知らずもいいところで、みんなからも散々ののしられて当然だ。
でも、今となってはそんなことはどうでもいい。とにかくオヤジには地べたに頭をこすりつけて俺が悪かった、申し訳ないことをした、と詫びるしかない。それだって詫びて済むことではないから、もう息子として扱ってくれなくて雇人の一人として使ってくれ、と頼み込もう』という決心をするに至った。こうして彼は往年の彼とは全く見間違う落ちぶれ果てたしょぼくれ姿で、父の所に帰ったのであった。
一方、父親はというと、毎日『あいつはあんな風にして飛び出していったが、ああいう奴のことだ。きっと行き詰って帰ってくるしかないだろう。でも帰って来てくれさえしたら、消息不明なんて言うより安心出来る。帰ってこいよ。』という思いで、毎日家の外を見ながら、息子の帰るのを待っていた。だから遠くにどこの誰とも見分けがつかないような人影が見えた時『あ、あいつだ』と素早く見て取って、自分の方から走り寄って抱きかかえて迎えてやったものだ。
息子の方は、豚小屋を出た時からオヤジに謝る言葉を繰り返し心の中で反芻していたのであろう。オヤジに会うや否や『オヤジ、俺が悪かった。赦してくれ』と言い、それに続けて『俺はもう息子と呼ばれる資格はない・・・』と言うつもりだったのに、父親はそういうことを言うのを遮るかのように『よく帰ってきた。わしはお前が出たきりになっているので、もう死んでいるのではないかと思っていたんだ。それなのに帰ってきてくれて本当に嬉しい』と言うと同時に、召使いの者たちに、大声で『おお~い、いなくなっていた息子が帰ってきたぞ。こいつに一番良い着物を着せてやってくれ。そして、さあ、歓迎大祝賀会だ。近所の人もみんな呼んで最上のご馳走を振るまって、喜び祝おう』と言った。」
以上の話はルカによる福音書15章というところに記されている話です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<4月のラジオ放送予定>
4月 5日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
12日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
19日 小野静雄 (日本キリスト改革派多治見教会牧師)
26日 小野静雄 (日本キリスト改革派多治見教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」