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解説 ウエストミンスター信仰告白 (34)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第16章 よきわざについて・・2・・
4 服従において、この世で可能な最高度に到達する人々でも、義務以上にすること、すなわち神の要求以上にすることはとても及びもつかないだけでなく、義務上しなければならぬ多くのことにさえも達しないほどである(1)。
1 ルカ17:10、ネヘミヤ13:22、ヨブ9:2,3、ガラテヤ5:17
四 ここでの告白は、聖霊によらなければ一歩も歩めないわたしたちは、聖霊によってもなおとうてい命じられているすべてを、なしえないということを常に悟る時、謙遜と熱心な祈りと、また、うむことのない励みとがあたえられるというのである。
5 わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来たるべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず(1)、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり(2)、またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって(3)、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである(4)。
1 ロマ3:20、ロマ4:2,4,6、エペソ2:8,9、テトス3:5-7、ロマ8:18、
詩16:2、ヨブ22:2,3、ヨブ35:7,8
2 ルカ17:10
3 ガラテヤ5:22,23
4 イザヤ64:5(6)、ガラテヤ5:17、ロマ7:15,18、詩143:2、詩130:3
五 ここでは、クリスチャンのなす善(よきわざ)の限界が告白されている。わたしたちは聖霊の恩恵的助けによってさえも、決して救いを買い取るほどの善をなしえる者ではないこと。また、クリスチャンの善行は、一方、聖霊のみ業であるが、同時に人間の業でもある。そして、人間はどこまでも汚れ、腐敗した人間性より解放されないから、その業も地上では、やはり完全な善ではありえないのである。
アウグスチヌスが言ったように、善人もまた腐敗している。このことを考える時、キリストのみ業がいかに独自なものであり、その意義がいかに高価なものであり、実にわたしたちの罪の贖いとしての値を十分に備えたものであったかを知るのである。メイチェン博士が死の床で、親友マーレー教授に向かって「キリストの積極的服従に感謝する」と言った言葉を私は幾度か思い返して味わうのである。
わたしたちの善が何万何億と集積されても、ひとりの魂をさえ救いえないことは、詩編49編の作者がうたったところである。しかし、ただひとりの神の子イエス・キリストの血とその罪なき三十数年の生涯は、実にわたしたち全人 類の大罪を一切贖ってもなお、余りのあるほどのものなのである。
6 しかも、それにもかかわらず、信者自身は、キリストによって受け入れられているので、そのよきわざもまたキリストにおいて受け入れられる(1)。それは、そのよきわざが、この世で神のみ前に全く非難され責められるべき点がないものであるかのようではなくて(2)、神がそれをみ子において見られ、誠実なものを、多くの弱点や不完全さを伴ってはいるが、受け入れて、それに報いることをよしとされるからである(3)。
1 エペソ1:6、Ⅰペテロ2:5、出エジプト28:38、創世4:4、ヘブル11:4(*)
*創世4:4をヘブル11:4と比較
2 ヨブ9:20、詩143:2
3 ヘブル13:20,21、Ⅱコリント8:12、ヘブル6:10、マタイ25:21,23
六 これは前項の反面を述べたものであって、よき業は未回心者のものとしては、救いに役に立たないばかりか、神の審判に耐えられない汚れたものであるが、信者にとっては、その人格、性質同様、赦され、受け入れられるものとされ、従って、善行にふさわしい報いをも頂くものと認められるのである。
7 再生しない人々がする行為は、事柄としては、たといそれが神の命じておられる事柄であり、自分にも他人にも有益であるとしても(1)、それでもなお、信仰によってきよめられた心から出ておらず(2)、み言葉に従って、正しい態度からも(3)、また神の栄光という正しい目的のためにもなされていない(4)。それゆえその行為は、罪深いものであり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるにふさわしくすることもできない(5)。それでもなお、彼らがこの行為を怠ることは、一層罪深く、神を怒らせることである(6)。
1 列王下10:30,31、列王上21:27,29、ピリピ1:15,16,18
2 創世4:5、ヘブル11:4,6(*) *創世4:5をヘブル11:4と比較、ヘブル11:6
3 Ⅰコリント13:3、イザヤ1:12
4 マタイ6:2,5,16
5 ハガイ2:14、テトス1:15、アモス5:21,22、ホセア1:4、ロマ9:16、テトス3:5
6 詩14:4、詩36:3(4)、ヨブ21:14,15、マタイ25:41-43,45、マタイ23:23
七 ところがそれとは全く逆に、未再生の人の業は、行為自体としてはどれほど立派でも神の不興を買う。この両項の告白は文章としては、とても一般人に認容され難い逆説的とも言えるものであるが、予定論と罪人の本性・人格とそれが産み出す行為との不可分的関係とを前提にして判断すると、当然こうした厳しい割り切り方がなされることになろう。
全ての恵みと善を神に帰す信仰は当然こういう告白をアーメンと言わざるを得ないところに至るまで忍耐ある思索を深めなければならないだろう。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
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「緑のまきば」
「聖霊とその働き」