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今月のことば
「・・・。彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者との共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」。 =イザヤ53:12=
人は生を受け、そして、その生涯という言葉で死を迎えます。尊ばれ、惜しまれつつの死もあれば、災害や事故で死を迎える人もおられましょう。戦争や貧困が原因のものもあります。ある本の中に「母性とは、母親とは、新しい命を生み出すために、死という墓を越える生命力を持つ者・・・」とあるのを思い出しました。
一つの命を、一人の小さな命はそのように尊いと思う時、あの処女マリヤの
受胎告知の驚きとその命の持つ重みを知った時のマリヤの賛歌は、心打ちます。そうした命が、十字架の死を遂げる息子イエスを目の前にした、母親マリヤの悲しみは、どんなであったでしょうか。
ベツレヘムで生まれ、自らの手で育み成長した息子イエスは、マリヤの命を受け取った息子でした。
母マリヤの生死のかけた産みの戦いは、聖書には記されていません。しかし、それが、罪を贖う救い主の『罪の贖いの死』であることを、母親としてではなく、信仰者マリヤとして受け入れた時、彼女の悲しみは喜びへと変ったのでした。すべての人間の命を死から救う、唯一の命でもあります。人間には、キリストのような永遠の命を持ってはいませんので、キリストのような仕方で、自分の命を死に渡すことは出来ません。キリストなき死の先には、永遠の滅びあるのみです。
しかし、キリストが死に渡されたこの命だけは、イエスだけの命ではなかったのです。
死は、現実そして事実です。しかし、イエス・キリストは全く特異な死なのです。それは、私たち人間がどこにいようが、そのような人生であろうが、信仰者の受ける永遠の命を約束した死であり、命であり、よみがえりなのです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」