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小閑記
それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダへ先におやりになった。
=マルコ6:45=
信仰者が陥る事柄は沢山あります。イエスは奇跡によって、食物の問題を解決したので、人々はイエスを王にしようと望みました。弟子たちもまた、前途に明るい未来を見たのでした。彼らには、イエスに従うことは、経済的にも引き合うことを人々が分かってくれる日が近いと思われたのです。
主は彼らをこの異端から救わなければなりませんでした。そこで、彼らを嵐の夜の闇の中へ送り出したのです。
キリスト者となったならば経済的な利得があるという考えを信仰者が持ち始めると、危険は近いのです。「きよくあることはすべてに有益である」ということは真実です。しかし、もし、経済的利得が、キリスト教的徳の報酬であると考えるならば、私たちはとんでもない間違いをしているのです。そしてもし神の祝福をそんなふうに誤解するならば、主は今でもその愛する者たちを、その最もこのましくない道へ送り出すことがお出来になるのです。
主は困難と貧困の中に私たちが労苦するのを見ることを好まれるからではなく、キリスト者であることは、物質や富を所有するよりも、口では言えぬほど、はるかに偉大であることを教えたいと望まれるからであります。
経済的な貧しさを含めて、困難な時代というものを切り抜けたいものであります。しかし、信仰と忍耐によってそれらを神様からのときとして受ける人は、必ずそのような場合、失うよりも多くを受けるのであります。平穏無事な日に学び、経験することの出来ないものを、嵐と闇の中に救い主を再発見する時に、私たちは無限の報酬を受けるのです。
私たちは主が舟に乗ってこられ、海が静かになった時、主が何者にいますか、またキリスト者であることはどういうことであるかを、これまでよりも良く知るのです。
「神の国は飲み食いではなく、義と平和と、聖霊における喜びである」のです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」