[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
第69課 キリスト者生活の実践的義務
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・8・・・
「兄弟姉妹たちの助けになろうとの配慮」・・12:4~8・・・2・・
神の栄光は、キリスト教の教職者のみならず、キリスト信者の農夫・事業家・教師たち、すべて合法的な職業をもって人生を歩んでいる人たちによっても現されているのです。すなわち、キリスト教信仰を真剣に奉じ、日常の生活の中に聖潔を保ち、常に進んで人々を助けることに努力する人々によって、教職者に劣らず、神の栄光は現されるのです。
J・G・ヴォスの経験によると、中国に伝道していた多くの宣教師たちは教職者になろうとする人々を失望させなければならなかった経験を多く持ったでしょう。多くの中国の人たちが回心して、直ちに神学校に行き、伝道者になろうとしています。それらの人たちがキリスト教に回心することは、直ちに公的に献身に召されることではないということを、彼らの心に教えることが極めて必要なことでした。そして、教会においては教職者になろうとする以外に、神に仕える多くの方法があることを教えなければなりませんでした。
キリスト教実業家、医師、農夫、公務員、母親、主婦によっても、教職者と全く同じく、神の御名は崇められ、栄光は現されるのです。パウロはキリスト信者の聖潔は他人を助けることにおいて現されることを強調しています。彼はいろいろのキリスト教的活動や義務を挙げています。すなわち、預言・教えること・勧めること・与えること・治めること、慈善などです。
ここで預言と言われていることは、現在では宣教と言われていることと同意であると考えてよいでしょう。説教したり、集会において語り合ったりすることです。奉仕(ministry)は教会のおける種々の奉仕義務を指しています。教えることや勧めることは前述のことと特に区別する必要はありません。いろいろの見地から見た同じ働きと考えてよいでしょう。
ここで注意すべきことは、パウロが私たち一人一人に自分自身の働きによって仕えるように命じていることです。教える者は教えることによって仕え、勧めをする者は勧めることによって仕えることです。すなわち、私たち一人一人に神が為すように委ねておられることを、私たちは専心実行するべきなのです。私たち各人が、自分自身の為すべきことと他人の役に立つことが出来る機会とに絶えず注意を払っていることを命じているのです。
神が各人に為すように委ねておられる働きに厳しく意を用いることに勝って、教会を助け、神を喜ばすことは他にないのです。ペテロがヨハネについてイエスに、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねた時、主が言われた言葉、「・・・あなたにはなんの係わりがあるのか。あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:21~22)を覚えているべきです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」