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ビルマ
戦犯者の獄中記 (51) 遠山良作 著
昭和22年
9月4日
―タキン党事件の判決と裁判―・・1・・
8月11日から開始されたタキン党事件の判決があった。
憲兵大尉 東 登 絞首刑
憲兵少尉 中山伊作 絞首刑
憲兵曹長 月館孝吉 絞首刑
他下士官 6名 絞首刑
憲兵上等兵 1名 絞首刑
憲兵軍曹 1名 7年
憲兵軍曹 1名 5年
補助憲兵 阿部曹長 2年
補助憲兵 酒井軍曹 2年 の判決である。
死刑だけはないことを祈っていたことも空しく絞首刑10名の酷い判決に驚き、拭えども流れる涙は私だけではなかった。この事件は、英軍戦犯調査官たちがビルマにおける、憲兵が行った最大な残虐事件であると宣伝し審査に全力を傾けた事件でもあった。
当時ビルマにおける日本軍の敗色は濃厚となり日本軍に協力し独立を目指して来たビルマ防衛軍は日本不利なりとの情勢を知るや、日本軍に対して反乱をし、各地においてゲリラ戦を展開した。
昨日の友は今日の敵である。飢えと疲労で戦意のない敗走する多くの日本兵は殺害されつつあった。軍や憲兵隊司令部からも「反乱軍に関する情報を収集し、中心人物は抹殺すべし」との命令が発令されていた。
モールメン憲兵分隊は、反乱軍と関係のある容疑者として警察本部長をはじめ有力なタキン党員たち約80名のビルマ人を逮捕し、取り調べた。容疑のない者、容疑が軽微な者54人を釈放し、ゲリラ活動の一味と決定した重要人物26名を、憲兵司令官久米大佐、東南憲兵隊長粕谷中佐の命令によって「全員、処刑した」。終戦20日前のことであった。
さて、英軍当局は日本の憲兵を戦犯者に仕立てビルマ民衆の面前で裁判と言う裁きによって、民衆の反発心を日本軍に向け、英軍の権威の復活と民衆の心を把握する占領政策をとった。英当局は有力なタキン党員が殺された事件を民衆の前に明らかにすることが最も良い策であると、この事件の究明に懸命になった。彼等は終戦以来厳しい調査を開始したが、憲兵の口は固く、終戦後すでに一年有半を経過したが捜査は困難を極めた。
英軍の調査官ダスチュゲス少佐は、戦犯容疑者として拘禁中の田島少佐が麻薬患者であり、英語を話せることに目をつけスパイとして刑務所内を探らせた。一年半も刑務所生活をしていた人が、なぜ麻薬患者であったのか。どうして麻薬を入手することが出来得たのか。ここに拭いきれない疑問が残される。
*この文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」