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さんびか物語・・・15・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・14
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌163番
あまつみつかいよ
<神様のみ言葉>
「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実。』と呼ばれる方であり、・・・、その頭には多くの王冠があって、・・・、血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』とよばれた」。・・・。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた」。
=ヨハネの黙示録19章11~13節、16節=
1世紀の終わり頃、使徒ヨハネが信仰のために、パトモス島に島流しになった時、主イエス・キリストが、神のみ使いを遣わして、すぐに起こるはずのことを黙示をもって僕ヨハネにお告げになったと、ヨハネの黙示録1章1節に記されています。
作詞者エドワード・ペロネットは、このヨハネの黙示録を通してお現われになった‘王の王、主の主’を讃美歌163番‘あまつみつかいよ’を中心的な柱にして歌っております。同時に、主イエス・キリストの主権についても歌い上げておりまして、優れた歌を書いたその才能を、神様に讃美したいと思います。英語の讃美歌でこれほどよく知られ、評判の高いものはないそうです。
エドワード・ペロネットはイギリスのケントで生まれ(1726~1792)ました。祖父はフランスからの新教の亡命者であり、父のビンセントはスイスからイギリスに移って、50年間ショウハームの国教会の聖職として勤めました。
父のビンセントは有名なウエスレー兄弟を支援したのですが、国教会からは脱退しませんでした。しかし、息子のエドワードの方は、お父さんよりも一層メソジスト運動に賛同して、若い頃はジョン・ウエスレーと共に伝道したりしていたと言われております。しかし、その後、いろいろな問題に関連して意見が合わなくなったために、別々になってしまいました。
その後、ペロネットは教派から教派へと移って、最後には、カンタベリーにあった非国教会のある教派の牧師として、その生涯を終わっています。ペロネットがカンタベリーに移って間もなく、ウイリアム・シュラブソールという非常に才能のある青年と仲のいい友人となりました。
シュラブソール(1760・1~1806・1)は、かじ屋の息子としてカンタベリーで生まれました。小さい時から音楽が好きで、カンタベリーの有名な大聖堂の聖歌隊員として7年間、歌っていました。同時にそこでオルガンをも学びました。
シュラブソールの20歳の時に、この163番の曲MILES LANE
(彼がオルガニストとして勤めていた教会の名前)がThe Gosepel Magazinという雑誌の11月号に発表されましたが、作曲家名が記されていませんでした。その同じ11月号の同誌に、エドワード・ペロネットの‘イエスのみ名の力を仰げよ’(163番の英語の表題)の一部だけが無名で初めて発表されました。
曲MILES LANEは、ペロネットの依頼によってシュラブソールが作ったと言われていましたが、最近、この節を疑問視した意見が出ましたが、やはり、従来から言われております通り、依頼によるものと思われます。ともあれ、この二人の素晴らしい才能と深い信仰の結びあわせによって、このような貴重な作品が出来上がったのは世界中のクリスチャンにとりまして、大きな惠みと言えましょう。
翌1780年版のCollection of Psalm Tunesにおいて、初めてシュラブソールの名前がMILES LANEの作曲者として記されました。更に、ペロネットは1785年に完成された‘イエスのみ名の力を’を彼のOccasional Versesという機関紙に発表しました。これは、今日では世界中の大変めずらしく貴重な本として知られていて、今では二冊しか残っていないそうです。
シュラブソールは22歳でバンガの大聖堂でオルガニストとして選ばれましたが、非国教会と関係を持ったことを理由に辞めさせられました。それで彼は、ロンドンへ移り音楽の教師となり、非国教会のスパフィルドチャペルのオルガニストとなって、亡くなる1806年1月18日まで終生勤めました。
<163>
1 あまつみつかいよ イエスの御名の
ちからをあおぎて
君の君、主の主とほめよ。
2 いのちをささげし あかしびとよ
ダビデの御裔(みすえ)を
君の君、主の主とほめよ。
3 世のつみびとらよ イエスの愛と
なやみをおもいて
君の君、主の主とほめよ。
4 よろずのくにびと みまえに伏し
みいつをあおぎて
君の君、主の主とほめよ。
5 とわに世をしらす イエス君にぞ
かむりをささげて
君の君、主の主をほめよ。
素晴らしい讃美歌163番の言葉を読み、また歌うにいたしましても、深く感じられるのは、その3行目の‘君の君、主の主’というクライマックスであります。この日本語訳は最も聖書的であり、英文の原作の‘すべてのものの王として王冠をさずけよう!’よりも、本当に優れたものであると思います。
また、この言葉とシュラブソールの曲を合わせて歌います時、讃美歌としての無上の喜びと幸いを味わい知ることができると思います。
1節では、作詞者はみ使いたちに向って歌っているようです。‘あまつみつかいよ、イエスのみ名のちからをあおぎて、主とあがめよ’と奨めるのであります。この奨めを頂いて、私たちも‘イエスのみ名によってのみ、祈りを捧げる資格が与えられていることを決して忘れはありません。また、すべてを造り、すべてを治め給うのは三位一体の神であられることを覚えて、そのみ名の力を仰ぎましょう。
2節では、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」(黙示6:9)、つまり、‘いのちをささげしあかしびと’に向かって、‘ダビデの御子であったイエス・キリストを主とあがめよ’と歌っています。
ここで思い起こさせますのがイザヤ書の有名な11章1節であります。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若芽が出て実を結ぶ」。また、しゅろの木の枝をとって出迎えのために出て来て「ホサナ、祝福あれ。主の御名によって来られる方に」(マタイ21:9)とイスラエルの王に叫んだ群衆の声であります。私たちは、このように主をお迎えできているでしょうか。
3節では、私たち一人一人に向かっての呼びかけです。‘世のつみびとらよ’と歌っているからです。私たちはみな、このグループの一員です。みな罪人なのです。主イエス・キリストの贖いの十字架の死がなければ、誰一人の例外もなく滅びなければならない者です。ですから、イエスの愛と悩みを忘れてはなりません。
4節と5節では、世のすべての人々に呼びかけて、よろずの国々の人々が主イエス・キリストは唯一の主権者であり、絶対的な王であり、主のみ名とみ前にひれ伏して、その栄光と尊厳とを仰がなければなりません。また、永遠に世をご支配し治め給うイエス・キリストに‘君の君、主の主’としての冠を捧げてほめたたえなければならないと歌っています。
この作者の呼びかけは、神様ご自身が遠い旧約聖書の時代から語っておられることであります。イザヤ書45章23~24節であります。
「わたしは自分にかけて誓った。わたしたちの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主だけ、正義と力がある。』と言う」。
ヨハネの黙示録11章15節にありますように「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」キリストが再びこの世に来たり給うて悪魔を滅ぼし、すべてを、新たにするその日を預言しているのでありましょう。
どうぞ、私たちもその日のために希望をもって、正しく、また、雄々しくキリストの僕としての証しの歩みをいたしましょう。
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」