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解説 ウエストミンスター信仰告白 (36)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第17章 聖徒の堅忍について・・2・・
3 それにもかかわらず、彼らは、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の優勢さ、また自分を保持する手段を怠ることによって、ひどい罪に陥り(1)、しばらくの間そのうちにとどまることがある(2)。このため彼らは、神の不興をひきおこし(3)、神の聖霊を悲しませ(4)、自分の受けている恵みや慰めをある程度奪われるようになり(5)、心をかたくなにし(6)、良心を傷つけ(7)、他の人々をつまずかせ(8)、また自分に一時的審判をもたらす(9)。
1 マタイ26:70,72,74
2 詩51編(表題)(51:1,2)、14節(51:16)
3 イザヤ64:5,7,9(4,6,8)、サムエル下11:27
4 エペソ4:30
5 詩51:8,10,12(10,12,14)、黙示2:4、雅5:2-4,6
6 イザヤ63:17、マルコ6:52、マルコ16:14
7 詩32:3,4、詩51:8(10)
8 サムエル下12:14
9 詩89:31,32(32,33)、Ⅰコリント11:32
三 わたしたちはここで、絶対的と言うことに対して、それが一時的、または部分的であると言うことを考えなければならない。聖化の教理で、特に学んだようにある。その意味で、ホーリネス派またはメソジスト主義と呼ばれるものの一つの誤った考えを、わたしたちは厳しく排除しなければならない。
完聖主義者の誤りは、一つには、この絶対と部分または一時的との区分を、十分に気を付けて考慮しないところから生ずるものではないかと思われる。救いの確かさは、究極的には断続するのではなく、持読するものであり、また完全な姿において実現するのは一定の時の経過をたどった後のことである。地上の生活にあっては、それには消長があり、常に未完成である。
本項は、主として、この部分的または一時的な、確実性への危惧となる事情に関して、その生じるところを明らかにしている。すなわち、悪魔とか、世とか、また自分自身の中に残っている本質の腐敗とか、さらに、神より教会に命じられている恵みの手段の行使に関する不忠実、不注意といったもの、それらは、すべて罪とその力に関係するもの、被造物とその意志能力に関係するものばかりである。
つまり、この確実性を一時的また部分的に危惧させるものは、ことごとく被造物とその罪に原因するものである。このことは同時に、この不確実性を全面的また最後的にしのぐことはないことを物語るのである。マルチン・ルターの有名な言葉に「大いに罪を犯せ、しかし、それ以上に信仰を持て」と言うのがある。
これは十分注意しないと、とんでもない誤解を生む言葉であるが、その真意は、被造物の罪から出る力は、とうてい神の救いのみ業の上に出ることがない、と言う事実を強調しようとしたものである。カルヴィン主義は、実にこうした意味で神とその恵みの絶対性を告白することに外ならない。
カルヴァンの「キリスト教綱要」1巻の17にある、悪魔論の中にも「悪魔はやはり神の使い、人間の救いのために役立つ被造物」というのがあるが、同様の主旨として味わうべきでことだと思う。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」