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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・31
問20・・8 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> それを聞いた父親は「そうか、お前がそんな風に考えるとは思っていなかった。考えてみてくれ。お前には家もあるし、ここにある財産はみなお前のものなんだ。お前の自由になるものなんだ。そして、オレと一緒に働いてこれたんだ。だが、あいつ死んだと思っていたのに生きて帰って来たのだ。放蕩に身を持ち崩したのは良くない。がそれが悪かったと気付いて詫びに帰って来たのだ。オレは嬉しくてたまらんのだ。どうかオレと一緒に喜んでくれ」と言ったのでしたが、お兄ちゃんは「いいえ、わたしにはお父様のおっしゃることがよく分かりません」と言って、自分の部屋に入ってしまって、口を利かなくなってしまいました。勿論、弟に声をかけるなんてことはしませんでした。だって弟はもう弟ではなくアイツだったのですから。
さて、父親はここで新しい悩みを抱くことになりました。それは今まで一緒にいたと思っていると思っていた兄息子が、実は自分からは全く遠い所にいたことを知ったからです。兄息子は模範青年であり親孝行息子でありながら、その実、親の思いの届かない遠いところにいたのでした。
これが父の思いとは見当違いに生きている兄息子の的外れ(罪)であり、この模範生が、自分がいかに自分の父から離れているかを知るまでは、彼に悔い改めでも起こらねば、父の悩みも取り去られることはないでしょう。
「親の心子知らず」といいますが、「神のみこころ、人間知らず」ということもあります。キリストが語られた放蕩息子の譬え話は、神に対する人間の罪を、実に巧みに語られているものと思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<7月のラジオ放送予定>
7月 5日 楠本 茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)
12日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)
19日 高見伊三郎 (名古屋学院大学宗教部長)
26日 葛井 義憲 (名古屋学院大学法学部教授)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」