[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
さんびか物語・・・16・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・15
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌174番
起きよ 夜は明けぬ
<神様のみ言葉>
「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えよ」。
~マタイの福音書25章6~7節~
讃美歌174番‘起きよ、夜は明けぬ’は主イエス・キリストの再臨について歌っているまことに素晴らしい16世紀の歌であります。この讃美歌の背景になっているのは、イエス・キリストがご自分が再び来られる時、また、世の終わりについて弟子たちに語られた有名な‘10人の娘たちの譬話’であります。
‘起きよ、夜は明けぬ’(174番)並びに詩編45編に基づいて歌われている‘たえにうるわしや’(346番)の二つの讃美歌は‘キング・オブ・コラール’‘クイン・オブ・コラール’と呼ばれ、傑作中の傑作であり、非常に早くから普及していて、今日では世界各国の讃美歌集に取り入れられています。
優れた才能をもったこの二つの讃美歌の作詞者並びに作曲者のフィリップ・ニコライは1556年8月10日、ドイツのメンゲリングハウゼンでルーテル教会の牧師の息子として生まれました。彼はエルフルとウイッテンベルクの大学を卒業してから、1583年にルーテル教会の牧師とし按手礼を受けました。
その後いくつかの教会でその任務をはたしてから、1596年にウインの教会の牧師となりました。彼がその教会在任中の1597年から98年にかけて同地方に疫病(ペスト)が大流行し、ウインの町民1、300人ほどが、次々と倒れてニコライは連日10回もの葬儀を行なわなてればなりませんでした。
彼は教会の墓地で数多くの葬儀が行われるのを見て、‘死と永遠のいのち’について深く考えさせられたのであります。彼はその時の感想や作詞を一つの本にまとめて、それを‘喜びの鏡’という題のもとに1598年に発表されました。ニコライの有名な二つの讃美歌はこの本の中に収められて初めて発表されました。ちょうどその頃、スペイン(カトリック)の軍隊がドイツに侵入したため、プロテスタントであったニコライはいのちがけでウインから逃げなければなりませんでした。しかし彼は決して気落ちせず、あらゆる困難を乗り越えて、忠実に牧師としての任務を遂行しました。また、1601年にはハンブルグの聖キャサリン教会に転じて、そこで非常に名高い牧師となりました。
ニコライは、当時の教派的な闘争の影響を受けて、ルーテル教会の戦士として勇敢に戦い、論争的文章も多く書きました。そのために彼は、「ルーテル教会の大黒柱」として仰がれ、その教理の守護者として認められたのであります。
彼は1608年10月26日に召されました。
では‘キング・オブ・コラール’と言われている讃美歌174番を共に考えてみましょう。
<174>
1 起きよ、夜は明けぬ 夜警(ものみ)らは叫べり
起きよ、エルサレム。
おとめら、目覚めよ 新郎(はなむこ)は来ませり、
めさめて迎えよ。
さかえの主は くだりませぬ ハレルヤ。
ともしびかかげて いざむかえまつれ。
1節で、まず気がつくことは「起きよ」「目覚めよ」「目覚めて迎えよ」というように、起きなければ、目覚めていなければならない緊急なことがあるということであります。夜警は誰に向かって何度も繰り返して「起きよ」「目覚めよ」と叫んでいるのでしょうか。
2行目には「エルサレム」とありますし3行目には、「おとめら」とあります。この「エルサレム」と「おとめら」は誰のことを意味しているのでしょうか。それは、主イエス・キリストを主、また、救い主として認めている、私たちクリスチャンであります。すなわち、「あなた」であり「私」なのです。そうです。目を覚まさなければならないのは、神の選びの民であります
では、神の選びの民はなぜ起きなければならないのでしょうか。それは、夜が明けて新郎が来られるからです。この新郎とは、栄えの主のことであり、主は降り給うたがゆえに、私たちはともしびをかかげてお迎えに行かなければならない時になっている、と歌っています。
ここで教えられることが多くありますが、その一つは、私たちはいつも用心していなければならないということです。その理由をマタイの福音書24章44節は「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子(イエスご自身)は、思いがけない時に来るのですから」と言われています。
イエス様が教えられた譬え話では、待ちに待った花婿は夜中になってから、思いがけない時、みんながうとうとと眠っている時に来られるのです(マタイ25:5)。
ノアの日に洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らが分からなかったように、キリストの警告に聞き従わない多くの人々も、その最後の日が来るまで、神の義と裁きを恐れないのであります(マタイ24:39)。
あなたはうとうとして眠ってしまうグループですか? それとも用心して目を覚ましているグループですか? これこそ大切なメッセージであります。
2 よろこびあふるる 夜警(ものみ)らの叫びに
おとめらは覚めぬ。
さかえにかがやく 主の降りたまえば
ひかりはさしでぬ。
主よ、よくこそ、ましましけれ、ハレルヤ。
祝いのむしろに いざつかせたまえ。
日本語訳では、譬え話にあるように、その娘たちは叫ぶ声に目が覚めてみな起きて自分のともしびを整えて花婿を迎えに行こうとしたのです。そして喜びにあふれて栄えに輝く主をお迎えし、祝いのむしろにつかせたまえと歌っています。
しかし、聖書にありますが、油の用意をしていなかった愚かな5人の娘と用意していた賢い5人の娘の区別が見られません。この区別こそ聖書が私たちに教える一つの中心点であります。なぜなら用意していなかった5人の娘たちは婚礼の祝宴には入れなかったのです。「戸がしめられた」と聖書は記しています(マタイ25:10)。
どんなに警告を受けても、それに耳をふさぎ主イエス・キリストを迎えようとする心の準備をしない―その人―は到底その恵みのむしろに入れられません。また、ある人々が想像しているように、まだ遠い将来に起こるかもしれないイエス様の再臨のこととして考えてはなりません。私たち一人一人の最後の日、死そのものをも意味するとも思います。
むしろ、いつ来るかはだれ一人知ることが出来ないことですから、必ず来る確実なこととしてその備えをしておくことこそ大切です。悔い改めと信仰は戸が締められてからでは遅すぎます。この警告を恐れをもって味わって頂きたいと思います。
この讃美歌は2節の英訳は夜警らの声を聞くのはシオンであるとなっていますが、シオンというのは教会全体を意味するでしょう。シオンは喜びにあふれて栄光の主を迎えるのであります。この栄光の主は恵みに満ちた方であり、真理そのものであり、まことの光であり、神の愛されたひとり子であると歌っています。また私たちは招かれた食卓につくまでキリスに従っているようにと歌っています。
3 あめつちこぞりて 稜威(みいつ)たぐいもなき
主をたたえまつれ、
みくらをめぐりて かち歌をうたえる
みつかいとともに。
待ちにまちし 主はきませり、ハレルヤ。
栄(はえ)あるかちうた いざ共にうたわん。
この3節は、天地にあるすべてのものが、神の栄光と権威と主をたたえている素晴らしい讃美の歌であります。この場面は輝く神のみくら―また、それをめぐっているみ使いたちの姿であります。選ばれた者―救われた者―が天使たちのコーラスの声に合わせて、栄えあるかち歌を共に歌いつつ、待ちに待った主の再臨がいま来たかのように‘ハレルヤ’と讃美しているところであります。
願わくば、あなたも私もこのコーラスの一員として、永遠に神様を讃美できるように、今から心の準備をして待ち望みましょう。
*****************
この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」