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解説 ウエストミンスター信仰告白 (37)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第18章 恵みと救いの確信について・・1・・
1 たとえ偽善者や他の再生しない人々が、神の愛顧と救いの状態にあるという偽りの希望や肉的うぬぼれをもって、自分をいたずらに欺くことがあっても(1)、彼らのこのような希望は消え去ってしまう(2)。しかし主イエスを真実に信じ、誠実に愛し、全くよい良心をもってみ前に歩くように努める人々には、自分が恵みの状態にあることを、この世において確実に確信させられ(3)、また神の栄光にあずかる希望をもって喜ぶことができる。この希望は決して彼らを失望に終わらせない(4)。
1 ヨブ8:13,14、ミカ3:11、申命29:19(18)、ヨハネ8:41
2 マタイ7:22,23
3 Ⅰヨハネ2:3、Ⅰヨハネ3:14,18,19,21,24、Ⅰヨハネ5:13
4 ロマ5:2,5
一 ここで問題となっているのは、前章「聖徒の堅忍について」の問題のもう一つの面である。すなわち、第17章は客観面であるのに対して、本章は主観面である。そのために「恵みと救いの確実性」と訳さず「恵みと救いの確信」と訳されているが、実を言えば「確信の確実性」とでも言いたいとろである。
従って、まま宗教界にありがちな主観的、妄想的狂信、自分のひとり決めの大言壮語との対比で、このことが告白されている。マタイによる福音書7章22節にあるような実例は、悲しいことながら、あまりにも、たびたび存在する。かと言って救いと恵みの受領が常に本人には何の確信をもたらさないかのように、懐疑的謙卑をもって正しい信仰の常態とするわけにはいかない。もしそうならば、感謝という状態は存在しないことになるであろう。
ハイデルベルク信仰問答が明示するように、キリスト者の道徳の第一位は謙遜であると同時に、このよき業そのものが神への感謝である。わたしたちの信仰は、常に希望と愛との三角形を形づくっている。希望は恥をもたらさない。偽善者の妄想はある場合には、自分自身の心を欺瞞しているにすぎないから単なる虚言で取るに足らない。恐るべきは、本人がそれを真実と思い込んでいる場合である。
単純に人は、その人の真心からの確信であると言う理由だけで、その人の言葉を受け入れる。しかし、神は欺かれない。逆に、その人にその偽りであることを示されるのである。そうして妄信者の確信が打ち砕かれる日が来る。
それに比べて、わたしたちに与えられている希望と感謝とは、実現するものであるから恥は来ないのである。「恵みと救い」そのものにかえて、希望と感謝を受けたということを主観的に確信させられること、すなわち、感謝が自覚的であり得るということ、これは大いなる祝福でなくしてなんであろうか。選民意識、予定の確信というものの正しい姿である。
2 この確実性は、誤りをまぬがれない希望に基づいた、ただの推測的なもっともらしく見える信念にすぎないものではない(1)。それは、救いの約束の神的真理(2)、この約束がなされた恵みの内的証拠(3)、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊と共にあかしする子たる身分を与えるみたまの証明(4)の上に打ち建てられた信仰の無謬の確信なのである。このみたまは、わたしたちの嗣業の保証であり、このみたまによってわたしたちはあがないの日のために証印されている(5)。
1 ヘブライ6:11,19
2 ヘブライ6:17,18
3 Ⅱペテロ1:4,5,10,11、Ⅰヨハネ2:3、Ⅰヨハネ3:14、Ⅱコリント1:12
4 ロマ8:15,16
5 エペソ1:13,14、エペソ4:30、Ⅱコリント1:21,22
二 ここでの確実性は、アッシュアランスではなく、サーテンテイである。本項で告白されていることは、この確信(アッシュアランス)が、単なる人間の主観的臆断または信念と異なることであり、その理由は、それが本来神によって与えられた確信、聖霊のみ業として生じた確信であることを言おうとするものである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」