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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・32
問20・・9 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> イエスが語られた「放蕩息子の譬話」は「放蕩息子の父の譬話」であり、また「放蕩息子の兄の譬話」でもあります。この譬話によってイエスが語ろうとされたことは、イエスが「わが父」と呼ばれた神は、この放蕩息子の父のような方であるということです。即ち、神は神を無視して自分の思うままに生きている人間が神のもとへと立ち返るのを待っておられるというのであります。ということは、イエスにとって、神は、徹底した「赦し」の神であられるということであります。この「赦し」があるところに、すべての人が神のもとへと立ち返ることが出来る根拠があります。そして、そうであればこそ、
人間にとって、そこに、究極の安らぎまたは絶対に揺るがない心の基盤があるわけです。
ただし先にも述べたように、そういう赦しは甘過ぎるのではないかという批判があります。そういう甘さでは示しがつかない、父たるものはもっと厳しく毅然としていて「放蕩など赦さない」と言うのでなくてはならない、という声が上がりそうです。模範生をもって自認している兄息子に代表される考えがそうであります。
しかし、放蕩息子は、放蕩三昧に明け暮れしてきた自分が厳しい扱いを受けて当然と思っていたのに、その予想とは全く反対の大歓迎を受けた時、その「赦し」そのものが、自分に対する「徹底した裁き」つまり「オレが悪かった」ということを、骨身に徹するほどに自覚したに違いないのです。罪に対応するものは罰であって「赦し」ではありません。しかし、その罰を全部担ってくれる者(代罰者)があって赦しは成り立ちます。放蕩息子に対して当然要求してよいツケを、父がすべて担ってくれたことが分った時、その赦しによって、彼は「裁かれた!」ということを、痛感したに違いありません。「赦し」は、赦す側の犠牲を伴うこと無しには成り立たないのです。(このことはいずれキリストの十字架について触れます)
この譬話の中に、母親は登場していません。こういう話の筋道では、放蕩息子に対して「許せん!」と言って息子を家に入れようとしない父親とは反対に「よく帰って来たわねえ」とばかり裏口からこっそり招き入れて、「さあ、ひもじかっただろう。腹一杯お食べ、おとうさんにはそのうちわたしから上手に詫びてあげるから」という母親がいて、事が決着するものです。父親は「切る役」、母親は「包む役」を担うことによって、事が納まるのです。
人はみなこの母親を求めてやみません。マリヤや慈母観音や女神への思慕はいずれも、こうした人間のすべてを抱擁してくれるものを求めているからに他ならないと思います。
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みみずのたわ言ならぬ老木の呻き
「この道はいつか来た道、ああそうだよ、日の丸の旗がゆれる」
「大丈夫、大丈夫との御意見なれど、当方の声のかすれをいかに繕う」
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<8月のラジオ放送予定>
8月 2日 金原 義信 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
9日 金原 義信 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
16日 黄 敬 秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
23日 黄 敬 秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
30日 相馬 伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始19(日本キリスト改革派長久手教会牧師)52年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」