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解説 ウエストミンスター信仰告白 (39)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第19章 神の律法について・・1・・
1 神は、アダムにわざの契約として律法を与えられた。それによって神は、アダムとそのすべての子孫とに、人格的な、全き、厳密な、また恒久的な服従の義務を負わせ、それを果たせば命を与えることを約束し、破れば死を報いると威嚇し、それを守る力と能力を彼に授けられた(1)。
1.創世1:26,27、創世2:17(*)、ロマ2:14,15、ロマ10:5、ロマ5:12,19、
ガラテヤ3:10,12、伝道7:29、ヨブ28:28
*創世1:26,27を創世2:17と比較
一 律法と言う言葉は、聖書にあってはかなり伸縮性のある用語となっている。それは「神の意志」と同一視されるのであるが、かならず「啓示された意志」を指すのであって、決して「かくされた意志、すなわち、聖定」と混同されてはならない。人間の行為(この場合はきわめて広い意味である。単に行動のみでなく思考も含まれるし、また、存在の仕方、状態も含む)の規準であるから、かならず人間に告知されているものでなければならない。
律法は、その下に置かれていた者に対して、生か死かの二つの道を峻別するものである。中間はあり得ない。この場合、服従はまったく完全でなければ、結局は破戒と認められる。完全とは、律法の全部分に対して、時間的に、実質的に、存在において、思念において、感情において、意志において、行為において、完全でなければならないと言うことである。
「それを守る力と能力を彼に授けられた」というのは、律法が本来的に無理な要求というようなものでないことを示すのであるが、人間が創造された後、さらにこの律法の発布に当たって、この能力が付与されたというのではない。ローマ・カトリック教会では、堕落によって人間は超自然的賜物を失ったけれども、現在も人間として自然性を保持していると見るのに対して、わたしたち改革派教会は、罪ある現在の人間は、人間本来の姿ではなく、罪によって損傷している不自然な人間であるとみている。人間は最初から、業の契約の下に置かれ、律法とそれの成就能力を持つものとして造られたのである。
2 この律法は、アダムの堕落後も、続いて義の完全な規準であった。そのため、神によって、シナイ山で十誡として宣布され、二枚の板に書かれた(1)。最初の四つの戒めは、神に対するわたしたちの義務を、他の六つの戒めは、人間に対するわたしたちの義務を含んでいる(2)。
1 ヤコブ1:25、ヤコブ2:8,10-12、ロマ13:8,9、申命5:32、申命10:4、出エジプト34:1
2 マタイ22:37-40
二 エデンにおける創造のままの状態での、神の律法とその意義とは、罪と堕落という重大な変化に従って、当然に変化した(この変化を否定するのがペラギウス主義である)が、業の契約そのものが解消したとか、律法そのものが通用しなくなったとか考えてはならない(そのように考えるのが契約時代分割主義、デスペンセイジョナリズムである)。
これは人間の存在、ならびに行動の規準というよりも、神の義の規範であり、十戒はシナイ山で初めて人間に告知された神の律法というよりも、実は創造の時に与えられていた律法の要約であって罪によって不明瞭化した神の律法の再示であると認めるべきものである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」