[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。
=ガラテヤ6:4=
聖書の中には、数多くの戒めがあります。その中で大切な戒めは何かと問う人に、先ず神の戒めに軽重など存在しないことをお伝えし、その問いかけに意味があるとすれば、「ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい」と言うこのみ言葉ときちんと向き合うことは、この問いかけの答えと言えるでしょう。「問いかけ」のない人生など存在するのでしょうか。何よりも「問いを知る」こと、それ自体、恵みと言えます。
人は、自分の行いを管理・検討することは不得手な者です。干渉されることも嫌います。ある時期「反面教師」と言う言葉が流行しました。これは新しいことではありません。古来、たくさんの言い伝えがあるとおりです。「人のふり見て我がふり直せ」、「わが身を抓って人の痛さを知れ」ということもある年代の人は幼い頃に聞かされてきたことでしょう。
私たちは個人であると共にこの世の市民として生きています。キリスト者であるなら、キリスト者として社会に対して、如何にかかわりを持って生きているかは、その人の信仰の歩みを左右します。「地の塩・世の光」はこの、「自分の行いを検討」して初めて意味を為すなら、信仰の姿勢そのものと言えましょう。
鏡を見ずに自分の髪型を整えることなど至難です。信頼できる人にお任せするでしょう。この信頼関係は、社会生活・市民生活・個々人の尊厳として相互依存は欠くことの出来ないルールとして、私たちの日々の生活の維持の中に生き続けています。これは個人のことばかりでなく、国と国との関係も同様です。裸の王様は極めて危険です。
聖書の中に、パウロは同労者と一緒に困難な伝道旅行を行いましたが,それは、監視・干渉のためではありません。経済的な面でのことでもありません。他の人から奉仕を受け、パウロ自身も宣教の業を通して仕えています。他の使徒の助けを受けるためには、良い意味での監視は必要ですから、与えられる助言は、主にある交わりの比類なき祝福として受け止める心の準備は、謙遜の歩みでもあります。
「隣り人を愛し、仕えるために」「赦し合う心」を霊的祝福として祈り求めたいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」