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「ローマ人への手紙」研究
第70課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・11・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・11・・・
「キリスト教的勤勉愛の義務」・・12:11~13
「熱心で、倦むことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」(11~13節)。
ここでは勤勉と言う言葉によって要約される8つのキリスト者の義務が語られています。
第一に、キリスト者は多忙な人でなくてはなりません。すなわち、仕事に怠惰であってはならないのです。日常の生活において、またその仕事において、積極的であり、勤勉に励む人でなければならないのです。このことは勿論、病気や高齢や障害のために働くことができない人々を除く、すべての人々について言われているのです。多くの資産や動産を所有する人たちもあるでしょう。しかし、もしその人がキリスト信者であるならば、怠惰や無為のうちに日を過ごしたり自己本位の快楽の中で埋没することはないはずです。
なぜならば、神はすべてのキリスト者に対して、多忙で勤勉な日を送ることを求めておられるからであります。生活のために働く必要のない人たちでさえも、神に仕え、神を喜ばすために、働かなければならないのです。働かないことは罪なのです。神は人間を働くように創造しておられるのです。「6日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ」というのは、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という命令と共に、神の戒めなのであります。怠惰と無為のうちに日を送ることは、安息日に不必要な業をすることと同じく、神の道徳律法を犯すものであると言わなければなりません。
次に「霊に燃え、主に仕え」とあります。「霊の燃え」とは熱心であるといえましょう。主に仕えることにおいて熱心でなくてはならないのです。私たちは自分の信仰について、果たして熱心であるでしょうか。多かれ少なかれ、それが不愉快な業務だと感じてはいないでしょうか。私たちは喜んで信仰のために命を捨てるだけの決心があるでしょうか。古の殉教者たちのように。
共産主義は世界の半分を獲得しています。そして誰もが、真の共産主義者たちがその共産主義信仰に熱烈であることを知っています。しかし、彼らがその奉じる主義・信仰のために喜んで犠牲を払い、必要とすれば生命さえも惜しまないという事実は厳然と存在するのです。現代のキリスト信者は闘うことを忘れつつあるのではないでしょうか。もしそうであれば、その理由は、共産主義者たちがその主義・信仰について考えているほど、真剣にキリスト信者たちがその信仰について考えていないことによると言わなければなりません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」