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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・34
問20・・11 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 一般的に言って「救い」という言葉についての受け止め方はいろいろです。例えば「救急車」とか「救命ボート」とかいう場合には、そのままにしておいたら死ぬかも知れない状態から救い出すことが考えられています。それで、こういう救急策が有効に働いて命が取り止められた場合には、その本人は「救われた」と言うでしょうし、家族の者たちからも「救われて良かったね」と言われるに違いありません。そういう人命救助を仕事としている人によって、多くの人が救われている事実があります。これは体の命についてのことです。
また、時に「災害救助法の適用」がなされる場合があります。これは災害によって被害を受けた人が、そのままでは立ち直ることが困難な場合、その困難さからの救いということが考えられているわけです。そのほか自力では回復出来ない状況にある場合、その状況からの解放が「救い」と考えられます。病気、借金、自分に対する悪評などからの解放を「救い」ということが出来ます。
そういうことから言って、右に述べたよう事情がない人にとっては「救い」など必要ありません。ですから、「救い」などという言葉は、そういう人には無縁でありまして、ナポレオンが「余の辞書には不可能と言う言葉はない」と言ったことをもじって言うと、「わたしには『救い』と言う言葉は不必要です」ということになります。「みんな間に合っています」というわけです。
「死ぬこと」についても「わが人生に悔いはありません。死ぬのも時が来れば自然に死ぬのですから、とりたててどうってことはありません」と言う人もいるわけです。以上のように、「救い」を必要としている人と、必要としていない人とがいる、ということになります。
「キリスト」という言葉は「救い主(ぬし)」という意味ですから、「救い」を必要としていない人にとっては、キリストは無縁の存在であるわけです。それでもキリストの誕生のお祝であるクリスマスを祝うのはどういうわけでしょうか。
釈迦は「生老病死」と言う四苦からの解脱(げだつ)を願った人です。この四苦はすべての人に共通して存在しているもので、釈迦はそれからの解脱を悟りによって得たと言われております。ですから仏教は人間の問題に対する救いの道を説く「救済宗教」であります。(「救済宗教」にたいして「ご利益宗教」と呼ばれるものがあります)。
キリスト教も救済宗教ですが、その場合の「救い」とは「罪と死からの救い」のことを言います。罪にしても死にしても、何か形に現された行為や現象のように受け取られやすいのですが、聖書で問題とされているのは、神との関係においてのことであります。したがって、神不在であるなら「罪」も「死」も「救い」も、問題にはなりません。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」
協力委員・ラジオ説教者)
<10月のラジオ放送予定>
10月 4日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
11日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
18日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
25日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
放送開始1952年10月放送開始
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」