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さんびか物語・・・19・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・18
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌192番
ああなつかし いのちをもて
<神様のみ言葉>
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたようにあなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」。
~エペソ人への手紙5章25~27節~
神の家である「教会」をテーマにして歌っています多くの讃美歌の中で、192番のこの“ああなつかし、いのちをもて、あがないたまいし主のみとのや”は有名であります。その理由の一つは原作の素晴らしさにあります。また、この歌はアメリカの最初の公認讃美歌であると共に、世界に貢献した秀歌でもあります。
讃美歌192番の原作者ティモシ・ドワイト(1752~1817)は、イギリスの植民地であった当時のアメリカの精神的指導者でした。彼は有名な伝道者ジョナサン・エドワーズの孫として、マサチューセッツ州のノースハンプトンに生まれ、4歳で聖書を、6歳でラテン語の勉強を始め、13歳でイエル大学に入学し、17歳で卒業したという秀才でした。
彼は、しばらく母校で教えていましたが、1775年の独立戦争が起こった時に、アメリカ独立軍付牧師となりました。戦争の間、彼は礼拝と説教のほかに、兵士たちを慰め励ます詩や讃美歌を数多く書いたそうです。
1795年には母校イエル大学に招かれ総長に就任しました。そうして、20年の間、特にドワイトの深い信仰によって数多くの学生が神様に立ち返り学校の精神は無神論から神様を信じる信仰へと変えられていきました。
彼の教育家・著作家としての功績には著しいものがあります。讃美歌の方面ではコネチカット州の長老教会当局から、アイザック・ウォツの歌集(Psalmsand Hymns)の改訂を委任され、完成させました。この改訂は実質的にはドワイトの創作と変わらないものです。この歌も詩編137編にもとづいていますが、その内容はドワイトによって新約化されています。また、この讃美歌は1800年に出版・発表されましたが、現在に至るまでアメリカやイギリスの教会で愛唱されているものであります。
讃美歌192番の曲STATE STREETの作曲者はアメリカ人のショナサン・C・ウドマン(1813~1894)で、彼は1840年頃、ボストンで有名な音楽家ロウエル・メイスンと知り合いになり、この頃からオラトリオの独唱者として活躍したそうです。1880年以降は、ニューヨークやブルックリンで音楽を教える傍ら、教会のためにも活躍した人物であります。讃美歌192番はアメリカではSTATE STREETの他にST・THOMASという曲にも利用しています。ご参考のために讃美歌63番の“いざやともよ”や542番の“世をこぞりて”などをご覧ください。やはり、日本語訳の場合には、ST・THOMASよりもSTATE STREETの方が歌詞によく合うように思います。
この讃美歌の原作は、8節からなっていましたが、現在アメリカでは5節と6節が省略されて用いられています。日本語訳はさらに7節も省略して、結局1節~4節と8節が用いられているに過ぎません。
<192>
1 ああなつかし いのちをもて
あがないたまいし 主のみとのや。
1節では、“いのちをもて、あがないたまいし主のみとのや”すなわち、教会について歌っています。原作で作者は、教会を「神の家」「神の住んでおられるところ」と言っています。また“われらの聖き救い主が、ご自分の尊い血をもって、この教会を救って下さったが故に、教会を深く愛している”と歌っています。
エペソ人への手紙5章25節以下にありますように「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、・・・キリストがそうされたのは・・・教会をきよめて聖なるものとするためであり、・・・」と記されていますように、私たちもこのように教会を愛さなければならないと思います。
2 軒はたかく 床はひろく
いしずえうごかじ 主に置かれて。
2節では、教会のあらゆる部分―軒、床、その石ずえは主イエス・キリストの上に置かれているのですから、この世のどのような力が迫り来るとも、決して揺るがすことは出来ないと歌っています。
使徒パウロは若い弟子テモテに次のように教えています。「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は真理の柱また土台です」(Ⅰテモテ3:15)。真理の上に建てられ、真理を宣べ伝えるキリストの教会は、決して滅びることはありません。ここで思い起こさせるのが、キリストのペテロへのお言葉であります。「あなたはペテロです。わたしはこの岩(キリストを救い主として受け入れる告白)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタイ16:18)また、マタイの福音書7章24節以下にある、砂の上に建てられた家と岩の上建てられた家の譬話をご自身で一度お読みになって下さい。そこでは、キリストのみ言葉を聞いてそれを行う人、それを信じる人は、岩の上に建てる賢い人のようである、とお教えになりました。
あなたの生活は、キリストとその教会という土台の上に建てられていますか。
3 わがなみだ これにそそぎ
いのりののぞみも これにかかる。
3節には私たちばかりではなく、全人類の涙も祈りも望みも全てキリストとその教会にかかると歌っています。すなわち、私たちの全ては、キリストのものであり、キリストのためにのみ奉仕が出来るように与えられていると言うことでしょうか。また、私たちの涙も苦しみも全て、キリストの教会に注がれる時、暗黒から希望へと変えられると歌っているかのようであります。
自分の都合のみを考える一般の人と、全てを神様に捧げる人の生活とではどんなにか大きな隔たりがあることでしょう。
「私は主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3:8)と使徒パウロは告白しています。
私たちもこの告白を主イエス・キリストに捧げたいものです。
4 わがよろこび ほかにあらじ
たのしきまじわり きよきちかい。
4節では、教会で行う聖餐式また洗礼を受ける時のきよい誓いと主にある聖徒の楽しい交わりを中心にして、歌っています。まことの喜びは、このような主にある者たちの信仰に立った交わりの中にのみ、味わい知ることが出来ると、強調しています。罪から解放されている私たち信者は、心から喜ぶはずではないでしょうか。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」とピリピ人への手紙4章4節に言われていますが、このみ言葉の中心点は言うまでもなく‘主にあって’であります。主を知らぬ者には、まことの喜びは知り得ません。
5 かみのまこと つきぬかぎり
いのちのいずみは ここにぞ湧かん。
5節では、神様は永遠から永遠にいたるまでの存在者であることが讃美されています。ウエストミンスター小教理問答書の問4の答えにありますように、神様は「無限、永遠、不変の霊」であられます。この神様の本質と同様に、神様の真実も決して終わりのあるものではありません。むしろ、その望み、恵み、いのちは泉のように湧き出でるのであります。
神様のみ言葉である聖書、また、神様の家である教会の中で、神様のご本質は湧き出で光り輝くのであります。
イエス様が私たちにお約束くださいましたみ言葉を信仰を持って受け入れ、持ち続けましょう。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。(ヨハネ4:14)
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」