[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「ローマ人への手紙」研究
第70課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・12・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・12・・・
「キリスト教的勤勉愛の義務」・・12:11~13・・1・・
「熱心で、倦むことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」(11~13節)。
ある人が「信仰のために生きることは、信仰のために死ぬことより、はるかに困難である」と言ったことがあります。確かにこの言葉は大いに真理性があるものです。現代の情勢下においては、そのようなことはありそうにもないと見えるかもしれません。しかし、鋭い情勢分析をすれば、そのようなことの危険性が絶無とは決して言えないのです。とにかく、私たちは信仰のために生きるように召されています。すなわち、霊に燃え、主に仕えるように召しを受けているのです。もし私たちが本当に救いに与っているのであれば、また、もし神の御霊が私たちの心と生活の中で働いていないのであれば、私たちは信仰の熱心さにおいて死んでいると言わねばなりません。
この勤勉と熱心さは、私たちの日常の生活の中において、また信仰の熱心さの中において表われて来るのみでなく、11節においてみられるように「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈る」ことにおいて表われてくるのです。私たちは常に深い幸福感に満たされているのです。それはキリスト信者の希望、すなわち永遠の栄光の希望があるからであって、これらのものは「目がまだ見ず、耳がいまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自身を愛する者たちのために備えられた」(Ⅰコリント2:9)と言われているものに他なりません。
この幸いは、現在私たちが持っている多くの患難に勝って、より深いものなのであります。私たちは神の摂理のうちに、患難に耐えるように召されているのであり、患難に耐えることによって、キリスト者の熱心を示すのであります。
一つの物語があります。サタンが商売のために外出して、最高の入札者に、その道具を売ろうとします。彼は競売をするに当たり、自分の最低値の値札を一つ一つの道具につけるのである。ほとんどすべての道具に通常の値札がつけられたが、一つだけ(木片に契)状の道具があり、それには非常な高値の札が付けられていた。一人の人がサタンに、何故、こんなありふれたものに、そんな高い値札を付けたのかと尋ねた。サタンは答えて、「これは特殊な道具で、全ての他の道具が出来ないことでも、これは必ず成功するのだ。それの名は失望というのだ。私は他の道具や方法や誘惑で影響を与えることが出来ないキリスト者の幸福を破壊するときには、いつでもこの道具、すなわち失望という道具を使用するのである」と言いました。
祈りの最大の敵は失望です。信仰とキリスト者の熱心によって、これは克服出来るのです。バンヤンの天路歴程の失望者の物語を思い出してみてください。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」