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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・35
問20・・12 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 一般的に言って「救い」とはどういうことでしょうか。先に「放蕩息子のたとえ話」について話しましたが、放蕩息子は父親の愛によって、赦されるはずはないと思っていた父から、叱りや怒りではなく、赦しを得たことによって、父親との関係を回復することが出来ました。こうして彼は「救われた人間」になりました。一方、兄息子は「救い」など必要ない模範生であり、親孝行息子であると自他共に認められている人でした。
しかし、放蕩息子を無条件に赦して最上の客を迎えるように歓迎した父親のやり方は承知出来なくて、むくれ返って家に入ろうともしませんでした。この場合「家の中」とは、単なる建物としての家というより、父親と放蕩息子との間に成り立っている赦しの関係、または和らぎと喜びに包まれている宴(うたげ)の場という意味を持っている所のことであります。「模範生の自負はこうして、劣等生が優等生の待遇を受けている場に同席することは、それでは俺は一体どうなっているんだ」と言わざるを得ないのですから、そういう「いやな場はお断り」となるわけです。これに対して父親は「いいじゃないか、わたしが赦しているんだから、お前もわたしの喜びを一緒に喜んでくれ」というのですが、兄息子はそういう父親には承服できないのです。
「救いとは関係における事柄である」ということは先述した通りですが、右の場合、父親にとって兄息子は、もともと自分との関係を失っていた人間であることが、弟息子を受け入れたことによってはっきりしたのですから、「あいつはいい息子だと思っていたが、やれやれこれでは困ったことだ。あいつにも何とかしておれの気持ちが分かってほしいものだ。そうでなければおれは死ぬに死ねない」という思いに満たされることになります。
これが父親の新たな悩みとなります。この悩みはいつになったら解消されるでしょうか。兄息子が模範生であり孝行息子であるという自負に拠り立っている限り、その日は来そうにありません。父親の嘆きはずっと続きます。兄息子が何と言っても「おれは問題ないのだから」と思っている限りにおいて、そうなのです。
父親という存在がなければ、こういう問題は起こりません。また父親が放蕩息子を受け入れて最上の客をもてなすように喜ぶ父親でなければ、兄息子の不平は出てきません。救われなくてはならないのは兄息子も同様であるということは、父親が「赦しの愛」をもって「赦されるはずのない者を赦す父」であることが分かっていないということにおいて言えることであります。
キリストが「放蕩息子の譬え話」をされたのは、神は丁度この話に出てくる父親のような存在であることと、従ってこの話を聞いている人のすべてに「神による救い」ということを考えさせるためではなかったかと思わされます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<11月のラジオ放送予定>
11月 1日 笠井 恵二 (中部学院大学特認教授・宗教主事)
8日 笠井 恵二 (中部学院大学特認教授・宗教主事)
15日 志村 真 (岐阜済美学院宗教主事)
22日 志村 真 (岐阜済美学院宗教主事)
29日 西島麻里子 (済美高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」