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さんびか物語・・・20・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・19
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌206番
主のきよき つくえより
<神様のみ言葉>
「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません』」。
~ヨハネの福音書6章35節~
讃美歌206番は、聖餐式でよく歌われる美しい陪餐の歌の一つであります。
原作者エドワード・ヘンリ・ビカーステス(1825~1909)は、イギリス国教会の牧師の子供として、1825年1月25日、ロンドンのイズリントンで生まれました。
エドワードはケンブリッジ大学を卒えて1848年に国教会の聖職となりました。そうして初めにバニンガム、ノーフォーク、その他の教会を牧して後、1885年にエクセターの司祭に選ばれました。
彼は父親の跡を継ぐかのように牧会者として歩みつつも、詩人としても大に活躍した人物でした。彼は詩の本を12巻以上も書き、彼の編集した讃美歌集も数巻に及んでいます。特に、1870年に出版した讃美歌集The Hymanal Companionは非常にポピュラーになりました。
有名な著者ジェームス・ジュリアンはビカーステスの歌について、「彼の歌は主題を明確に強くとらえ、詩的に表現し、純粋なリズムを持ち、おだやかな感じをとらえているものです」と言っています。また、普通の讃美歌のように大衆的であるよりも、むしろ、どこまでも個人的、主観的なものでありましたが、多くの人々の興味を引くものであったとも言っています。
日本のクリスチャンの中には、彼の讃美歌206番よりも彼の作品である「やすし罪の世にも」の295番の方がよく知っているかも知れません。讃美歌295番の場合には、早くから日本語に訳されて用いられていました。
おもしろいことに、彼がアジアを旅行していた時に、この讃美歌の中国語訳の讃美歌を、興味深く聞いていたそうです。また、彼の長男エドワードは、当時、東京へ宣教師として来ていた聖公会の司教でした。彼は1897年(明治30年)に父親に先立って天国へ召されましたが、その葬りの時に讃美歌206番が歌われたそうです。
讃美歌206番の作曲者ジェームズ・ラングランは、1835年11月10日ロンドンで生まれ、1909年6月8日にこの世を去りました。彼はジョン・B・コーキンやJ・F・ブリジからオルガンを学んでから、ウド・グリーンやトトナムの各教会でオルガニストとしてつとめました。
彼は49歳でオックスフォド大学から音楽博士の学位を受けました。ラングランは1870年以降トトナムの聖パウロ教会でオルガニストとしてつとめ、1878年からは同じトトナムの聖キャサリン大学の教授に選ばれました。
彼の一番よく知られている曲は日本の讃美歌集にありませんが、DEERHURSTと、この206番のLANGRANの二つです。
<206>
1 主よきよき つくえより
こぼれたる くずをだに
拾うにも あたいせぬ
この身はいかにすべき。
1節では、自分のみにくさ、欠け多きこと、汚れを悔いて、〝主のきよき机よりこぼれたるくず″でさえも拾うに値しない者であると歌っています。ここで対照されていますことは、〝神様の聖さ″と〝罪の染まっている人間の不純な心″であります。
預言者イザヤは、神殿の王座に座しておられる主を見たとき「わざわいなるかなわたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ6:5)となげいています。聖餐の食卓につくとき、私たちがいつも覚えていなければならないことは、神様の聖さと自分のみにくさであり、この罪にそまった者には、どのような誇りもないということであります。
2 みゆるしの ちかいをば
ひたすらに たのみつつ
みまねきに したがいて
みもとにゆくほかなし。
2節では、神様ご自身が、罪にそまり、汚れの中にいる、すべての人類のために備え給うみ赦しの誓いと、救いへの招きについて歌っています。
この神様の赦しと救いへの招きを受け入れたいと心から願い求める人は、神様の恵みをいただくことが出来ます。ダビデ王は姦淫の罪を犯した時、その犯した罪の深さとひどさを心から認めて、神様のみ前にその罪を告白し、神様に赦されることを求めたとき、神様からの赦しときよめをいただくことが出来ました(詩編51編)。
また、ヨハネの手紙第一、1章9節には「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と記されています。
自分の罪を言い表すことによって赦されるとは、本当に感謝すべきことではないでしょうか。しかし、この感謝をいただくためには、正しい順番に従うことが求められます。それは神様に赦しを乞い願う前に、神様の招きのみ声に耳を傾けなければなりません。主イエス・キリストは当時のユダヤ人たちに次のように語られました。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6:35~37)。
私たちもあなたも、本当にイエス様をキリスト(救い主)と信じようとしているでしようか。イエス様にいのちのパンをいただこうとしているでしょうか。自分の罪を告白しキリストのみもとに行って罪の赦しを求めているでしょうか。この応答こそ大切であります。
3 あいの主よ みめぐみは
はてもなく うえもなし、
つみびとの かしらなる
われおもゆるしたまえ。
3節では、使徒パウロの言葉を引用して「罪人のかしらなるわれを、赦し給え」(Ⅰテモテ1:15)と祈っています。主イエス・キリストは愛の主であられ、その恵みははてもなく、うえもない恵みです。ですから、罪に汚れた者でありましても、大胆に神様の赦しを願い求めることが喜びをもって出来るのであります。同時に、その勇気さえもお与えくださいます。ですから、私たちは、神様の豊かな恵みをいつも感謝すべきですし、また、私たちはダビデが祈っておりますように日々祈るべきであります。
ダビデ王は、「神よ、みこころの時に、あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください」(詩編69:13)と祈っています。
4 みことばの うれしさに
わが身をも わすれつつ
客人(まれびと)の むれにいり、
むしろにわれをもはべらん。
4節では、救われた者の喜びを歌いつつ、神様のみもとに招かれた者の群れに入れられて、その恵みのむしろに加えられている場面を讃美しています。罪人である私たちが、どうして、聖なる神様の祝いの宴に招かれるでしょうか。むしろ、サタンの滅びの座にこそふさわしい者です。しかし、神様の救いは、また、招きは私たち罪人を、この歌詞の通りに、神様の招きに加えてくださるのであります。あなたも、この喜び、この素晴らしさを味わってください。
ペテロは神様の素晴らしいみ業を次のように言っています。「あなたがたを、やみの中からご自分に驚くべき光の中に、招いてくださった」(Ⅰペテロ2:9)。この神様のお招きにすべての人々は応答しなければなりません。
5 またとなき 今日の日の
よろこびに つつまれて、
とこしえの ふるまいに
たえせずおらせたまえ。
5節では、神様の家での、永遠のふるまいに絶えずおらせ給えと歌っています。この永遠の喜びを味わい知るために、私たちは〝いま″〝きょう″主イエス・キリストを信じる者とならなければなりません。明日ではもう遅すぎるかも知れないのです。むしろ、〝今日という日″があなたの入信への決断の日となりますようにお祈りいたします。
「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」(ローマ13:12)。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」