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「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・13・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・13・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・1・・
この章ではキリスト者の謙遜と柔和について多く教えられています。しかし先ず柔和(meakness)と言うことの意味は何でありましょう。3節はその意味を殆ど余すところなく明らかにしています。「自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う、思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」。柔和は謙遜、慎み、心の低いことの意味です。また、穏やかさ、忍耐などもこの柔和という言葉に関連性があります。
謙遜と柔和ということは、実は一種の勇気、むしろ最高の勇気がいることでもあります。私たちは柔和や謙遜を勇気とは反対のことのように考えやすいものです。しかし、実際には、それらは最高で最も気高い勇気を要するものなのです。柔和と謙遜とは、人生のおける多くの現実に対して、毅然として直面してゆく静かな勇気なのです。それらは私たちに悪を赦すことが出来るようにする勇気であるとともに、自分から「すみませんでした」と言って、率直に自分の誤りを認めて許しを求めさせるようにする勇気でもあります。
更には、それらは、狼狽することなく、患難に直面させる勇気でもあり、重大な不正に直面しても、冷笑的、侮蔑的になることなく、冷静に対処させる勇気ともなります。
謙遜は偉くなろうとする野心を、敢えて捨て去り、低い所に甘んじ、その環境の中において、最善を尽くして、神を喜ばせることに、喜びを感じさせる勇気でもあり、また、自分を誇りや虚栄や自己中心主義を捨てさせ、謙虚な無私の態度をとらせる勇気でもあります。
私たちはみな生来、おそろしく臆病者なのです。私たちは人の下になることを極度に恐れ、自分のこの世的な誇りや野心を捨てることを極度に嫌がり、悪かったと自己の非を認めることをいたずらに恐れます。許しを求めることも苦しみに耐えることをも恐れるのが人間の生来の性質です。
私たちは道徳的に極度に臆病です。しかし、キリスト信者は謙遜と柔和の恵みを受けているのであって、あらゆる状況に直面しても、神の力によってそれらを乗り越えて克服してゆく力を与えられているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」