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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・36
問20・・13 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> ・・大分前のことですが、ある人から「あなたは救われていますか」という質問を受けたことがあります。正直言って、これには困りました。わたしは牧師であり伝道者であって、人々にキリストによる救いを説いているのですから、「勿論救われています」と応えるのが当然だと思うのですが、その質問者に即答出来ず、答えるのにいささかためらいを覚えていました。
そのわけは、その人は当然「わたしは救われました」と言い、それに続けて、いつ、どこでどんなことを経験してその救いを確信するに至ったかを語られるに違いないと思ったからです。そこで、わたくしは「一口に『救われました』と言っても、何をもって「救われた」と言えるか、少し話し合って相互理解をした上でないと、見当違いになる恐れがありますね」みたいなことを言ったものですから、その人は「こんなはっきりしない牧師を相手にしていてもつまらん」と思われたのでしょうか、話はそこで終わってしまいました。
私が小学生の頃、救世軍というキリスト教の一派の人たちが、太鼓をたたいて、町の中を歩き回ったり、広場の一隅で伝道していました。その時よく歌われていたのは「十字架にかかりたる救い主を見よや、こは汝が犯したる罪のためただ信ぜよただ信ぜよ信ぜよ信ずるものは皆救われん(救われる、の意)」という歌でした。この歌は余ほど多くの人に知られていたのでしょう。漫才の中のギャグにも「信じるものは救われん」などと言って笑いを取っていたものです。
確かに「信じるものは救われん」です。ただし、これには十字架にかかりたる救い主」を見ることがなくては叶わないことです。そして、その十字架にキリストがかけられたのは、わたしたちが犯した罪のため(罪に対する審きを担うため)でした。
前にも触れましたが、罪に対応するものは罰であって、赦しではありません。この世において、罪を犯したものはそれ相応の罰を受けます。罰が課せられることなしに赦されることはあり得ません。場合によっては死刑が宣せられます。死ぬことによって罪が償われるのです。しかもその罪というものが、何に対しての罪(背反、無視、見当違い)であるかは問題です。大日本国憲法においては「天皇は神聖にして犯してはならない」存在でした。
ですから、この神聖性を汚すものは極刑に処せられました。神聖なものが存在しないなら、これに対する罪というものもあり得ません。ただ神聖という言葉は使わなくても、「人の命は地球よりも重い」という時には、命というものの価値を絶対化に近い評価をしているわけですから、命を侵害する罪に対する裁きとしての罰が極刑に近いのは当然と言えます。
モーセの十戒の第一戒は「わたしのほか何者をも神としてはならない」ということでした。この神が厳然として存在しておられる所で、神に対する罪が問題とされるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<12月のラジオ放送予定>
12月 6日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
13日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
20日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
27日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」