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さんびか物語・・・21・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・20
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌217番
あまつましみず
<神様のみ言葉>
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。あなたがたに与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます』」。
~ヨハネの福音書4章13節~14節~
讃美歌217番"あまつましみず″は、日本の讃美歌作詞者の作品のうちでも、最も古いものの一つであると言えましょう。それは、この美しい讃美歌が1884年(明治17年)に発行された「基督教聖歌集」におさめられていたからです。そしてこの作品は、この聖歌集から明治版「讃美歌」を経て昭和版「讃美歌」に編入された歌であるからであります。
また、この讃美歌の作者についても驚きです。それは、作者が作詞した年齢であります。この作品は永井えい子の17、8歳の頃のものであったそうですから、まだうら若い乙女の頃と思います。ですから、その若さと詩の美しさに驚きを禁じえません。
永井えい子は1866年(慶応2年)に、松本貞樹の子として上総国(千葉県)馬来田村に生まれました。彼女は幼い時から文学を学び、書をよくし、和歌なども作ったりしていました。そうして、1875年(明治8年)頃、東京の救世学校(青山女学院の前身)に入学して、キリスト教主義の教育を受けたのであります。
彼女は、わずか17歳にしてジャン・キャロル・デピソンというメソジスト派の宣教師を助けて「基督教聖歌集」に収める歌を作ったり訳したりしていました。この伝道的な217番‶あまつましみず″はその時の作品の一つでした。
また彼女は、ムス・ホルブルック(後のミセス・チャペル)というカナデアンメソジスト派の宣教師を助けて、四谷あたりで伝道もしていました。1883年(明治16年)には女子高等師範学校の助教授となり、さらに華族女学校、実践女学校で教えもしました。そして、その後、毎日新聞の記者にもなっています。
1902年(明治35年)にはアメリカに渡って、Ide Tama(いでたま)というペンネームで日本の風俗等について講演し、パシフィック大学から学位を授けられています。彼女は1928年(昭和3年)に62歳で亡くなりましたが、遺構「永井えい子詩文」は1300ページもある大きな本だそうです。
讃美歌217番の曲HOME(この曲は430番の結婚式にも用いられています)は、日本では明治時代から広く親しまれてきた曲であります。しかし、残念なことに作曲者ジョン・H・マクノートン(1829~1901)についての詳しいことは、ほとんどわかりません。
彼はたぶん無名のアメリカ人であったようです。なぜなら、この曲はアメリカの宣教師が、日本伝道用にもってきた、伝道用福音唱歌であったからであります。それはともあれ、この讃美歌の作詞者永井えい子と作曲者マクノートンのコンビは本当に素晴らしいものと思います。歌詞と曲とが実にうまく組み合わされていて、メロディーとことばが一本の絹糸のように、なめらかに流れているようです。また無駄なことばは一つも使わず、伝道の必要性と歌われた者の喜びを身にしみわたるように歌っています。
<217>
1 あまつましみず ながれきて
あまねく世をぞ うるおせる。
ながくかわきし わがたましいも
くみていのちに かえりけり。
1節ですが、この讃美歌全体の背景にあるのは、主イエス・キリストがヤコブの井戸のかたわらで、サマリヤの女に語られたお言葉であります。
ヨハネの福音書4章6節以下には、ある女がスカルの村にあるヤコブの井戸に水をくみに来たとき、旅の疲れで、井戸の傍らに腰を下ろしていたイエス様が「わたしに水を飲ませてください」と言われました。するとその女は、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女に私に、飲み水をお求めになるのですか」と聞きました。「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」とヨハネは記しています。
そこで主イエス・キリストは「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者が誰であるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(ヨハネ4:10)と答えられました。
これらの聖句で明らかなことは、この女は神の賜物をまだ知らなかったばかりでなく、キリストご自身についても知らなかった、ということです。もし彼女がこの二つのことを知っていましたなら、彼女の方からイエス様に「いのちの水」を求めたことでしょう。そして、イエス様は彼女に生ける水を与えたことでしょう。
作詞者永井えい子は、主イエス・キリストが与えようとしておられるこの「生ける水」を‶あまつましみず″と言っています。つまり、この水は天からの聖いまことの水であって、世のすべてに流れ渡り、世界のあらゆる国々の人々の心をうるおすことのできる水であります。
国籍や人種は問題になりません。ガラテヤ人への手紙3章28節にありますように、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからである」。
大切な点は「キリスト・イエスにあって」というところにあります。主イエス・キリストを救い主として知り、受け入れていないなら、決して‶あまつましみず″を飲むことは出来ません。むしろ不信仰は‶あまつましみず″を飲んでいないというところにその証拠を見ることが出来ます。
2 あまつましみず 飲むままに
かわきを知らぬ みとなりぬ。
つきぬめぐみは こころのうちに
いずみとなりて 湧きあふる。
2節では、この‶あまつましみず″を飲んだ結果と、味わい知った恵みについて歌っています。キリストを信じ受け入れてから、‶かわきを知らぬ身となりぬ″と言われていますが、これは神様から祝福をいただいた者が証しする信仰の喜びです。また、キリストがお約束なさったように、救い主なるキリストが与え給う水は、信仰者の心の中で泉となって、尽せぬ恵みがたえず湧き溢れると歌っています。
この恵みは、生ける水を飲む者にのみという限られたものですから、主イエス・キリストを信じるか否かは大切な問題であります。
3 あまつましみず うけずして
つみに枯れたる ひとくさの
さかえの花は いかで咲くべき
そそげ、いのちの ましみずを。
3節で積極的にすすめていることは、私たちが〝いのちのましみず″を注ぐようにということです。この世の中にあって、罪の支配に打ちのめされてしまっている魂、息もたえだえに歩んでいる人々がいかに多いかは想像できないほどと思います。
罪に押しつぶされた人々の集団である現代は、罪の温床、魂のない死せる大地・砂漠のようなものです。この一本の草をも芽生えさせない砂漠に誰が命の水を注ぐのでしょうか。
それは、自分以外の誰かでしょうか。そうではありません。クリスチャンであるあなた自身であり私です。クリスチャン一人一人は、その責任を神と人の前に負う者でもあります(マタイ28:19~20)。
私たちはこの尊い責任をはたしているでしょうか。教会は宣教のみ業を今こそ十分に神と人の前になさねばならないのではないでしょうか。
作者が歌っていますように、永遠の花が咲くためには、生ける水・あまつ水が必要なのです。その生ける水・あまつ水を、まずあなたが十分に神様からいただき、そのいただいた祝福の水を愛する隣り人にわかち与える人になってください。
日本の国の救いには、あなたがいただいた信仰の喜びと証しの伝道が必要なのです。栄えの花が満ち満ちるために祈りましょう。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」