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解説 ウエストミンスター信仰告白 (42)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第20章 キリスト者の自由及び良心の自由について・・1・・
1 キリストが福音の下にある信者のために買い取られた自由は、罪責・神の断罪的なみ怒り・道徳律法ののろいからの自由と(1)、今の悪い世・サタンへの隷属・罪の支配から(2)、またかん難の害悪・死のとげ・墓の勝利・永遠の刑罰からの彼らの解放と(3)、彼らの自由な神への接近(4)、奴隷的恐れからでなく子のような愛と自発的精神から神に服従をささげることにある(5)。これらはすべて、律法の下にある信者にも共通であった(6)。しかし新約の下では、キリスト者の自由は、ユダヤ人教会が服していた儀式律法のくびきからの自由において(7)、恵みのみ座に一層大胆に近付くことにおいて(8)、また神の自由のみたまを、律法の下にある信者が普通にあずかったよりも豊かに与えられることにおいて(9)、更に拡大されている。
1 テトス2:14、Ⅰテサロニケ1:10、ガラテヤ3:13
2 ガラテヤ1:4、コロサイ1:13、行伝26:18、ロマ6:14
3 ロマ8:28、詩119:71、Ⅰコリント15:54-57、ロマ8:1
4 ロマ5:1,2
5 ロマ8:14,15、Ⅰヨハネ4:18
6 ガラテヤ3:9,14
7 ガラテヤ4:1-3,6,7、ガラテヤ5:1、行伝15:10,11
8 ヘブル4:14,16、ヘブル10:19-22
9 ヨハネ7:38,39、Ⅱコリント3:13,17,18
一 ウエストミンスタ―信仰告白は、3つの自由について言及している。第9章「自由意志について」と、この章の「キリスト者の自由」と「良心の自由」がそれである。この3つは深い関係にあるが、必ずしも同じものではない。そのうち、この項は「キリスト者の自由」について述べている。
それは、民主主義で言う基本的人権としての自由とは異なり、キリスト信者のもとに与えられている自由で、どこまでも宗教的自由であって、義認、子とされること、聖化などキリスト者がこの世で受ける救いの賜物の全般にわたることである。救いの恵みを、特に解放という面から見た表現と言えよう。
それは単に消極的な罪の赦しの面のみでなく、新しく与えられる特権面をも含むものである。この点、子とされることは、この自由の中心をなすことといえよう。この自由は、新約時代に与えられた特権であるので、旧約時代の信者もキリスト者ではあるけれども、ここで言うキリスト者の自由に全面的には浴していなかった。パウロの時代の大問題であった「異邦人の自由」と言われるのは、大体ここで言う「自由」に当たるものである。エペソ人への手紙2章なども同様の問題である。
2 神のみが良心の主であり(1)、神は、何事においてもみ言葉に反し、あるいは、信仰と礼拝の事柄においてであれば、み言葉の外にあるところの、人間の教えと戒めから良心を自由にされた(2)。それで、良心を離れてこのような教えを信じまたは戒めに服従することは、良心の真の自由を裏切ることである(3)。また盲従的信仰や絶対的・盲目的服従を要求することは、良心の自由と理性とを破壊することである(4)。
1 ヤコブ4:12、ロマ14:4
2 行伝4:19、行伝5:29、Ⅰコリント7:23、マタイ23:8-10、Ⅱコリント1:24、マタイ15:9
3 コロサイ2:20,22,23、ガラテヤ1:10、ガラテヤ2:4,5、ガラテヤ5:1
4 ロマ10:17、ロマ14:23、イザヤ8:20、行伝17:11、ヨハネ4:22、ホセア5:11、黙示13:12,16,17、エレミヤ8:9
二 ここでは第三の自由「良心の自由」が問題とされている。良心の自由は、ある点からいえば、創造の秩序に属し、人間の基本的な問題である。しかし、罪のもとにある人間としては意志の自由と同様に、効力を伴わない。従って、実際問題としては、キリスト者の自由とともに信者として初めて問題とされる。神のみを己が良心の主とすることは、サタンの下にある人間のなしえないところであり、キリストに贖われて初めてサタンとの主従関係から解放されて、神との主従関係が確立するのである。神を知ることと、神を愛することと、神に従うこととが同時的に連なっていることを、わたしたちは認めなければならない。これがカルヴァンの主張の第一点であった。
本項で直接問題になっているのは、宗教的な観念や行事(本章4項には、信仰、礼拝、行状とある)であって、道徳の原則についてではない。新約時代の信者がユダヤ教的教会の割礼その他の儀式律法の義務から自由にされたように、異教の種々な宗教儀式を良心的に否定する自由を与えられた、いわゆるピューリタン原理であって、かくして礼拝の純正化が生まれるのである。しかし、このことは昔からアディアホラ論争と呼ばれて、ずいぶんやかましい問題である。
メランヒトンなどは、外的な礼拝様式は「どうでもよい自由な事柄」だから、少々カトリック的様式を取り入れても、信仰そのものの妥協にはならないと考えたが、カルヴィンは、それを悲しみ反対した。
アディアホラ論争は、その後ルター派と敬虔派との間で娯楽に関して争われた。しかし、本項での問題はどこまでも宗教問題そのもののことで、聖書に書いていないことを信じたり、守ったりすることはいけないという主張である。いけないと主張することは、一見自由を主張するよりも、自由を否定するように聞こえるが、実は、キリスト者の良心の自由を束縛することだから、それを断固否定せよ、と言うのである。
本信仰告白第一章「聖書について」の6項の後半には、神礼拝や教会政治に関し、ある意味でのアディアホラが認められているとも受け取れる。けれども、本項はあくまでも、メランヒトンたちがローマ・カトリック教会との協調を試みたような、非聖書的儀式を礼拝の中に認容することへの厳重な抗議と理解すべきである。これはコロサイ人への手紙2章でパウロが教えている通り、み言葉への服従のために、み言葉にない教えや戒めを「世の小学」として排除する自由の主張なのである。
ところで、本項の後半は、それを命じる者の立場についての規定である。ローマ・カトリック教会は「教える教会」と「学ぶ教会」という区別、つまり、聖俗の区別を立てていた。改革派教会は、それを否定する万人祭司主義であるから、信者が一人ひとり良心の主、神に仕えて、人間の教えや戒めを否定する義務がある。同様に、信者も教師も、他の信者に向かって、理由の伴わない命令を下す権利は持っていない。主権は神のものであるから、神の僕を自分の命令下に置いてはならないのである。この原理こそ、パウロがローマ人への手紙14章で教えているところで、わたしたちは自分の良心の自由とともに、他人の良心の自由を尊重しなければならない。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」