[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・14・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・14・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・2・・
さて、12章には謙遜と柔和とが強く勧められていることに注目しましょう。まず3節には「思うべき限度を越えて思いあがる」と、私たちが容易に逸脱して行くように誘われる状況が描写されています。注意深く考えてみると、このような巧みな誘惑に免疫である者は誰一人いません。
自己の素質、人格、業績、重要さについて過大な評価をしようとする誘惑から逃れることが出来る人はいない。もし、私たちがキリスト信者の謙遜を身につけているならば、神の恵みが私たちに、ますますこのような利己的な誇りと傲慢さとを征服させて下さるのです。
さて、14節には迫害下の行動について教えられています。「あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」。この言葉はキリスト信者にキリスト教迫害者の要求に屈服せよと教えられているのではありません。ここで教えられているのは、迫害者に対する私たち自身の態度・姿勢のことであって、私たちは彼らを呪う代わりに、祝福しなくてはならないと言っているのです。彼らが私たちに悪を行う場合、悪に対して悪をもってではなく、善をもって報いるべきであると教えているのであります。
キリストの死後260年に、ローマ政府によって不当に死刑に処せられた監督キプリアヌスが逮捕された時、ローマの法廷で裁かれ、ローマの神々に捧げ物を捧げるように命じられました。その時彼は断固としてそれを拒否しました。裁判官は彼に注意深く答弁するように忠告し、彼の答弁如何にかかっていることを告げました。その時キプリアヌスは、「あなたの義務を果たしなさい。このことは全く考慮すべき余地のないことです」と答えました。このため、彼は斬首の刑を宣告されたのでした。彼が宣告を聞いた時に言った唯一の言葉は、「神に感謝する」でした。死刑執行日には多くの群衆が集まっていました。その中の多くは彼の友人であり、彼の尊敬者たちでした。刀を構えた執行人はその執行にあたって、震えていました。キプリアヌスは膝を屈して祈りを捧げ、それから彼はその財産の中から25個の金貨を執行人に贈り物として与えることが彼の最後の願いであることを表明しました。こうして彼は誰にも憎悪を示めさなかったばかりでなく、キリスト信者にとっては死ぬことも益であるという真理を深く印象づけたのでした。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」