[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・37
<続き>
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・3・・
答・・4 「菊と刀」という著書によって有名になったルース・ベネデクトは、欧米の文化は罪悪の文化であるが、日本の文化は恥辱文化であると述べています。罪悪文化というのは神に対する罪が人間の意識の根底にあってそれによって文化が生み出されているというのです。恥辱文化というのは恥の意識が人間の根底にあってそれがもとになって文化が作り出されているというのです。
最初読んだ時には「成る程」と思いましたが、今では必ずしもそうとは言い切れないのではないかと思っています。それというのも、例えば昔から「そんなことをしたんじゃ、お天とう様に申し訳ない」と言われるのを聞いていますし、親鸞が自分のことを「最悪深重」と言い「地獄は必定わが住家ぞかし」と言っていること即して言えば、日本人がただ恥だけを意識の根底においているとは言えないのではないか思えるからです。
親鸞が自分のことを罪深く救い難い人間であると自覚したのは、超越的人格的存在である阿弥陀仏との人格的関わりがあってのことと思います。しかもその救い難い人間であるとしか思えない者であればそうであるだけ救い出さなくてはならないとされるのが阿弥陀仏の本願であることを知らされたことが、親鸞にとって救いであったのです。
親鸞が仏教全体の中でどういう位置付けをされているのかわかりませんが、「善人なおもて救われる、まして罪人をや」という「悪人正機説」は、「キリストは罪人を救うためにこの世に来られた」ということと、救いの構造はよく似ています。ただし阿弥陀仏というのが超越的存在であることと、キリストは真の人としてこの世に来られたこととは違います。
ところで、先述したモーセの第一戒に背いた時どうなるかというと、そういう人は最も崇めなくてはならない方を冒涜したこととして、死刑に処されます。キリストが死刑に処せられたのはキリストの言動が神を冒涜しているからだというのが、その理由でした。実際はキリストは父なる神様のみこころを行うことに終始されたのですが・・・。
神のみこころを行うことに生きた人を神に背く者であると判定したのですから、これほど大きな見当違いはありません。しかもその見当違いに気付くどころか、自分たちこそ神のみこころにかなうことをしているのだと自負していたのですから、救いようがありません。
キリストが十字架の上で、父である神に「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分たちが何をしているのか分かっていないからです」と祈られたのは、この救い難い見当違いの一切を自分の死において担い切られたからです。人間の犯す最大の見当違い(罪)は、人間が自分の価値判断を絶対化することにありますが、その見当違いを命をかけて担う人がいて、赦しが成り立ちます。ここに救いの根拠があります。その根拠となるのが「愛」であると言えます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年1月のラジオ放送予定>
1月 3日 保科 義朝 (日本基督教団熱田教会信徒)
10日 保科 義朝 (日本基督教団熱田教会信徒)
17日 佐野悠紀子 (日本基督教団枇杷島教会信徒)
24日 佐野悠紀子 (日本基督教団枇杷島教会信徒)
31日 田口 博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」