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解説 ウエストミンスター信仰告白 (43)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第20章 キリスト者の自由及び良心の自由について・・2・・
3 キリスト者の自由を口実にして、何か罪を犯したり欲情をいだいたりする者は、それによって、キリスト者の自由の目的を破壊する。すなわちそれは、敵の手から救い出された、わたしたちが、生きている限り、恐れなく、主のみ前にきよく正しく仕えることなのである(1)。
1 ガラテヤ5:13、Ⅰペテロ2:16、Ⅱペテロ2:19、ヨハネ8:34、ルカ1:74,75
三 自由の強調は一方で律法無視の危険を伴うものである。それは、律法の強調がパリサイ主義の危険を伴うのと同様である。わたしたちは生きるにも死ぬにも、主のためでなくてはならない。主に仕える生活は、主が聖であるように、聖くなることを建前としなければならない。従って、罪を自発的に犯す生活は、キリスト者の自由と両立しない。自由は罪を犯す自由ではない。自発的に神に仕える自由である。
4 神が制定された権力とキリストが買い取られた自由とは、破壊するためでなく、互いに他を保持し維持することが、神によって意図されているのであるから、キリスト者の自由を口実にして、国家的または教会的権能のいずれであれ、合法的な権能またはその合法的行使に反対する者は、神の制定に反抗している(1)。また自然の光や、信仰・礼拝・または行状に関するキリスト教の周知の原則や、あるいは敬けんな権能に反するような意見を公表し、あるいはそのような行為を支持すること、あるいはその性質上または公表や支持の方法上、キリストが教会の中に打ち建てられた外的平和と秩序にとって破壊的な誤った意見や実践をするならば、そのような者が教会の譴責(2)と国家的為政者の権能(3)とによって、責任を問われ告訴されるのは、合法的である。
[1787年合衆国長老教会総会改訂「そのような者が教会によって譴責されて、責任を問われ、告訴されるのは、合法的である」。日本基督改革派教会第4回大会採択]
1 マタイ12:25、Ⅰペテロ2:13,14,16、ロマ13:1-8、ヘブル13:17
2 ロマ1:32、Ⅰコリント5:1,5,11,13(*)、Ⅱヨハネ10,11、Ⅱテサロニケ3:14、
Ⅰテモテ6:3-5、テトス1:10,11,13、テトス3:10、マタイ18:15-17(**)、
Ⅰテモテ1:19,20、黙示2:2,14,15,20、黙示3:9
*ロマ1:32をⅠコリント5:1,5,11,13と比較
**Ⅱヨハネ10,11、Ⅱテサロニケ3:14、Ⅰテモテ6:3-5、テトス1:10,11,13、テトス3:10を、マタイ18:15-17と比較
3 申命13:6-12(7-13)、ロマ13:3,4、Ⅱヨハネ10,11(*)、エズラ7:23,25-28、
黙示17:12,16,17、ネヘミヤ13:15,17,21,22,25,30、列王下23:5,6,9,20,21、
歴代下34:33、歴代下15:12,13,16、ダニエル3:29、Ⅰテモテ2:2、イザヤ49:23、ゼカリヤ13:2,3
*ロマ13:3,4をⅡヨハネ10,11と比較
四 ここでは、更に、具体的に律法無視論(アンティノミアニズム)を否定する。秩序そのものは神の機能に属し、自由と矛盾しない。神の意志である律法とキリストの賜物である自由とは両立する。従って、キリスト者の自由に基づいて、非聖書的な命令に服従しないと言うことは、それを命じている国家または教会が、明白に神にそむき、神の権力を非道な命令で犯すこと、すなわち、暴政を行おうとしているとの確信に基づいてのみ、実践されるのである。
この場合、これを命じている国家または教会の当局者が、自分の命令が明らかに神の意志(聖書の教え)であると確信しているとしたら、当然に二つの確信が対決となり、為政者は不服従者を神への反抗者として譴責、処刑する権利と義務を負うのである。この場合、わたしたちは神の意志とは聖書のうちに啓示されている意志を指すべきもので、何か直接啓示的に為政者に神の声がかかぅたと言うような、神秘主義、または為政者の側でのみ、それを神の意志と断定する特権があるというような権力主義を認めてはならない。
<付言>
ウエストミンスター信仰基準において、この自由に関する点は、大小教理問答には全然言及がなく、信仰告白のみで取り扱われているという現象は、わたしたちの注意をひくところである。多分、この問題が常識的に取り扱われていることの危険を感じてのことであろう。予定論以上に、当時の情勢下ではこの事柄は注意深く語られる必要があった。教会は律法主義に対してより以上に、律法無視論を警戒していたと思う。
そこで本章全体も、律法主義に対しての警告はほとんど言及されていない。ルター派に比較し、特にこの点が見える。しかし、律法の正しい意義を知るためには、自由の正しい理解が伴わなければなし得ないと思う。律法と自由とが各章を連ねて論じられているのは、そのためであろう。
バルト主義では、福音と律法と言う方式が愛用されている。本信条では、律法と自由とが表裏をなして論じられている。この論じ方の相違は大変重要である。改革派神学体系では、神と信者との関係は、まず根本的に契約の関係として規定されている。律法関係も、福音関係も根本的には契約関係である。契約は恩恵関係と義務関係との両面を持っている。律法関係も福音(あるいは信仰)関係も、恩恵関係であり、義務関係である。このような意味で、自由のない律法はなく、律法のない自由はない。だから律法を説いて自由を説くことを怠れば、結局、律法がないことになり、自由を教えて律法を教えなければ、自由を教えていないことになる。
ひと言で言えば、律法主義も律法無視論も同じ誤りを犯しているのである。自由を主張することに危惧をいだく必要はない。それを心配するなら、なぜ、律法を主張することにも同程度の心配をしないのだろうか。無軌道信者を作ることと、パリサイ的信者を作ることと、どちらが悪いのだろうか。改革派教会が真に聖書的教会であり、改革派信者が真のクリスチャンであるためには、自由と律法とを同時に、同様に尊重するのでなければならない。
牧会上の便利から、もし律法を10回教えて、自由を1回しか教えないなら、パリサイ主義の信者を作りつつあると思わなければならいのではないだろうか。日本人は昔から儒教の影響で律儀な人間を尊敬してきた。それはパリサイ主義に通じる道ではないだろうか。
嵐に会っても信仰を貫くことは、キリスト者の自由と良心の自由を、はっきりとつかんだ信者でなければできないことである。イギリス清教徒の強さは、スコットランド・カルヴィン主義者(ジョン・ノックスを見るとよくわかる)の強さと相まってのみ、はじめて真に聖書的信者の偉大であったことが分かる。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」