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「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・15・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・15・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・3・・
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(15節)。
ここではキリスト者の同情が教えられています。視野の狭いキリスト者は自分のことだけに忙殺されていて、他の人々の事情や悲しみを思う余裕がありません。しかし、謙遜で柔和で自己中心的でないキリスト者は、自分のことのように他人の喜びを共に分かち合うのです。これは実に難しいことですが、主はこれを求められるのです。
「互いに思うことを一つにし」(16節)。このことは一致と同意が真理の道理に於いてなされて良いということでは断じてありません。もし教会の会員の一人が偽りの教理を教えて、聖書の真理を否定しているとすれば、私たちは彼と一致すべきではありません。平和と調和だけのために、神の真理を犠牲にして一致することは間違いであり、神の前に有罪なのです。現代の諸教会は外面的な和合と調和ののみを尊重するが、それは偶像礼拝に外ならないのです。それは真理と義を犠牲にしたうわべだけの一致を追及することです。教会の外面的和合のために、教理的または実際的諸問題をめぐる真剣な討議や討論を避けようとする人々があります。そのようなことをするとすれば教会の平和が乱だされるのではないかと彼等は心配するのです。また、そうした諸問題を正規に従って教会に付託することにも反対論があって教会の平和が乱れるのではないかと憂いるのです。どんなに犠牲を払っても達成すべきその様な和合というものは聖書の中に語られてはいないことを銘記しなければなりません。聖書は常に真理と正義を犠牲にして和合を求めることなどは決して命じてはいないのです。もし現代の教会が、外面的和合と一致の追及に熱心であるほどに、神の栄光を求めることに熱心であろうとすれば、期待をはるかに超える神の祝福が注がれていたことでしょう。
しかし、ここの聖句は確かに、私たちは反対を許容することができないような頑迷な心をもつべきではないことも教えています。私たちはすべてのことについて、ある雑誌に助言を求める一通の手紙が掲載されました。その手紙を書いた女性は、自分はいつでも自分の思う通りにしたいし、彼女の夫もまた彼の思う通りしたいと望みました。それで、彼らが幸せな家庭をもつためには、どうすべきかについて助言を求めているのです。しかし、幸せと和合という祝福を受けながら、同時に何時も自分の思う通りにすることを言い張る方法は存在しないのです。
私たちは、和合のために私たちの正しい主義原則を犠牲にすべきではありません。しかし、他方では、私たちは自分自身を主義原則と呼んでいるものが、実は自分の思う通りにするための単なる頑迷さと自己主義な願望に過ぎないのではないかを、常に確認しなければならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」