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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・38
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・3・・
答・・5 今回はキリストに触れて「救われた」と思ったであろう人、また他人から見て「あの人はあれで救われたなあ」と思われたであろう人のことを、新約聖書の記事の中から選び出して考えてみます。
一人は中風を癒されました。それまでは手足が思うように動かなくて、いらいらし、世をはかなんでいたかも知れません。また、家族や周りの人たちからも世話がかかるために敬遠されていたかも知れません。ですから「中風でなかったらなあ」と思っていたに違いありません。そういう人をキリストは癒して、自由に動く体にされるのですから、この人にとっても、この人のことを知っている人にとっても、これは救われたことと認められたに違いありません。
もう一人はハンセン氏病を癒されました。キリストの時代には、この病気に罹った者は「穢れた者」とされて、隔離された所に住まわされました。一般の市民生活や社会活動の一切を禁じられていました。日本でも「天刑病」つまり「天からの刑罰を受けた病気」などと言われ、隔離された島などに収容されました。こういう人を、キリストは癒して、社会復帰をさせられました。この人にとっても、このことは「救われた」ことであったでしょう。
またある人は、生まれつき目が見えなかったのを、キリストによって癒されて見えるようになりました。この人も「救われた」と思ったことでしょう。
以上のようなことがキリストによって次々になされましたから、キリストには「治癒神」のように見られた一面があったことは否定できません。ただし、そうであるなら、医者と同じです。勿論、こういう癒しが、病人や障害を持った人にとって必要なことは言うまでもありません。キリスト教病院やクリスチャンドクターは、キリストの働きを担っている面があります。
しかし、病気や障害を癒された人たちのその後の人生の歩みがどうであったかが問題です。見えるようになったため、醜悪なものを見てしまって、「見えない方が幸せであった」ということがあるのです。また「あの人、体が元気になったため、やりたいことをやり放題だ。あんなことなら病気のままだった方が周りの迷惑が少なくなって良かったわ」と言われることだってあります。
そういうことを考えると、救いと言うことは、病気などの癒しにとどまたず、むしろどんな状況の中でもたじろがないでおれる自立性を確立されることと、関わる全ての人と平和を保つことが出来る調和性の根拠である「愛」に根ざした自己に変えられるという、人間そのものに関することを負いのであると言うことがお分かりいただけるのではないかと思います。そして、そのことは体が健康な人についても同様に言えることです。病気の人より健康な人の方に犯罪行為が多いのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年2月のラジオ放送予定>
2月 7日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
14日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
21日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
28日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」