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ビルマ
戦犯者の獄中記 (59) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・7・
―タキン党事件に思うー・・2・・
インパール作戦に敗れてからの日本軍は優勢な英軍の前に撤退に撤退を続け、首都ラングーンの防衛さえ叫ばれる、敗色濃いビルマ戦況であった。この弱体な日本軍と行動を共にするより、むしろ英軍に協力することが彼らに有利だと考えたのかもしれない。しかし、今まで日本軍に協力してくれた彼らの行動を見るかぎり、英軍に寝返ることは、私には考えられないことであった。
日本軍がビルマに進攻作戦を開始するや、タキン党は直ちに独立義勇軍を編成し、日本軍の先頭に立って道案内をし、また武器をとって英軍と戦いつつ、モールメンに進撃した。このビルマ独立軍を迎えた民家は「ドバマ、ドバマ」と叫びつつ歓喜して迎えた様子を語ってくれる彼らの表情は明るく希望と喜びに満ちていたことを忘れることは出来なかった。
われわれ憲兵に対して、常に積極的に情報を提供してくれた彼らの行為は、支那大陸の戦線で冷たい支那民衆の目になれている私たちには、その違いをはっきり知ることができた。
どんな田舎の部落でも一人で情報収集に行くこともできた。彼らはみな“マスターよく来てくれた”と食事を出してくれる。ビルマの食事には必ず出してくれる「ナピー」と呼ぶおかずがある。強烈な悪臭は食欲をなくしてしまうが、馴れてくると臭いも気にならなくなる。
その材料は魚を塩と唐辛子で漬けた塩辛に似ている。目から涙が出る程辛い。それを指でつまんで分けてくれる。私たちも同じように5本の指でご飯を丸めて口に中に放り込んで食べるのである。彼らの言葉の中に「かつての英人は私たちとは決して一緒に食事をしなかった。彼らはわれわれを見下し、軽蔑していたが、日本人は違う。顔も似ているし、食事も一緒に食べてくれるから親しみ深く、好きである」とどのビルマ人もよく言う言葉である。
この親日的で底抜けに明るいビルマ人が日本軍を裏切るとは考えられないし、信じたくないのである。しかしタキンタントから提供された情報であるだけに確度としては信用のおける情報である。
この情報を藤原班長と東分隊長に報告した。分隊長は東南憲兵隊長及び司令部にも報告された由であったが取り上げられず、捜査すらしなかったが、その約一か月後にビルマ国軍が反乱したしたのである。
その後私は、カラゴン地区に駐屯していた印度独立義勇軍の動勢探査を命ぜられ、チャイマロ町にいた時に終戦を迎えたので、タキン党事件には直接関与しなかったが、その端緒とも思われる情報提供者である私が死刑の判決を受けずに、これからも生きようとしていることは何か重荷を背負わされている思いである。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」