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「ローマ人への手紙」研究」
第72課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・16・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・15・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・4・・
「高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい」(mind not high things,but conecend to men of low estate)(16a)。これらの言葉を自分の生活と性格の中に取り入れることができる人は、真に偉大な人格の持ち主です。アブラハム・リンカーン大統領は、その地位にありながら、少しも尊大さがなく、社会の底辺で生きている人々と語り合えることが出来る人でした。それが出来る人は真に立派な紳士であると言えましょう。
自分の体面や尊厳を保つことに汲々とする人は、このような事はできません。あまりにも自分を意識し過ぎているからです。
私たちは、キリスト者として、へり下って、低い地位にある人々と交わるべきです。結局、神のみ前には、私たちは皆、低い地位にある人間だからです。神に対して人間は取るに足りない者です。謙遜さと柔和さという恵みを受けているキリスト者は、自分自身の尊厳を保とうとすべきではありません。キリスト者は、他人と折り合ってゆくことを困難させるような、いかなる固定観念を持ってはならいはずです。
「自分を知者だと思いあがってはならない」(be not wise in your own conceits)。いい気になって、自分を知者だとするようなという意味です。「知性について誇ることや、周りの人々より自分が勝っていると思うことほど、有害な種類の誇りは他にありません。このような考えは、他人の見解を蔑視したり、自分自身に自惚れることを引き起こすのである。福音が私たちに求めている気質とは、幼児のような従順、謙遜、柔和さなのである」(ホッジ)。
「だれに対しても悪をもって悪に報いず」(Recompence to no man evil for evil)(17a)。ある時、一人の宣教師が、キリストの福音について僅かしか聞いていない人から、天国について質問を受けました。その質問の一つは、「この世にいる間に、自分をひどい目に合わせた人々を、天国において復讐することができるだろうだろうか」というものでした。
その宣教師は彼にこう答えて、「復讐しようなどと考えるような人は、天国に全く入ることは出来ない」と答えました。だれかに復讐しようという欲求は、罪の汚れた心の自然な傾向であろう。しかし、このような願いは邪悪なものであって、私たちはそのほかの罪に汚れた考えと共に、取り除かれねばないないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」