[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (60) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・8・
―落下傘諜者を追跡して・・1・・
寝静まった獄房の中で一人
「神様、私のような者でもこの世の中で何かお役に立つことがあるならば生かして下さい。しかし生きていても何の価値もない人間であるならば、ここで死ぬるともやむを得ません。」と祈った。この祈りが聞かれたかも知れないと思うと、目には見えない神様からのみ手が重くのしかかって来る感じさえする。
そればかりではない。穴沢弁護士さん、戦友、証人に立ってくれたビルマ人の友情によって生きられたこの生命、大切にしなければならないと思う。
ビルマの友よありがとう。
日本の勝利を信じつつ戦った、当時のことが昨日のことのように思い出となって次から次へと脳裏に去来する。
北支那(中国)からビルマ野戦憲兵として転属してモールメン憲兵分隊に赴任したのは昭和18年1月であった。それから間もない4月の暑い日のことである。情報収集から帰って来ると、モールメンから南へ100キロ以上もあるイエ町附近の部落から来たと言う二人のビルマ人が、落下傘らしきものを持って、憲兵隊に届けに来たことがあった。
彼らの話によると、「3日前の月夜の晩であった。村の上空を低空飛行で、幾回も旋回して何慮かに去って行った飛行機があった。翌朝その附近の原野の木立の枝にこの落下傘が引掛かっていたのを村人が見つけて届けに来た」と言うのである。
それは確かに英軍の落下傘だと思われる。血みどろの戦いをしている前線では、夜間低空飛行は旋回しては飛行機から落下傘諜者を味方の陣地後方に降下させる例である。英軍からの落下傘諜者が潜入した疑いがあるので鈴木磯次郎分隊長は捜索隊を編成して現地に派遣することにした。
私と浜田曹長、屋(おく)伍長(北支五期生)、補助憲兵2名に捜索を命じた。なおビルマ人警官3名と、部隊から下士官以下10名の応援を得て、私たちはその翌日現地に急行した。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」