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さんびか物語・・・24・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・23
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌250番
つみのちから せまりて
<神様のみ言葉>
「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」。
~詩編32編5節~
この讃美歌は、罪のしつこさ、深さ、恐ろしさを美しい言葉の中に表現していると共に、主イエス・キリストの十字架の贖いの死による、罪への勝利を歌い上げている、素晴らしい讃美歌であります。
讃美歌250番の作詞者ホレイシャス・ボナーは、イギリスの5大讃美歌作者の一人と言われています。また、スコットランドでは一番有名な讃美歌作者として、人々に知られています。
1954年版の讃美歌にも、ボナーの作品は、10ほどあります。その中には、皆さんもご存知の247番“檻をはなれ”285番“主よ、み手もて”などは、特に有名であります
ホレイシャス・ボナーは、1808年スコットランドの教会で重要な地位にあった名門の家に生まれ、エジンバラの大学を卒業後、同地のリースの副牧師として牧会生活に入りました。1843年、国教会が分裂した時、彼は自由教会の側に立って、同教会の重要なメンバーとして活躍されました。
この讃美歌が書かれた1866年に、エジンバラのチャーマース記念教会に移り、23年間忙しい牧会活動を続けました。彼が1889年その生涯を閉じる数年前には、自由教会の総会議長にも選ばれています。
彼は、数多くの著書の他に、10巻近い讃美歌集を発表しています。また、彼の手になる讃美歌は600曲ほどと言われています。
当時の教会で用いられていた讃美歌は、詩編歌のみでしたから、彼の創作讃美歌はスコットランドの人々に大いに歓迎されていました。今日でも、100ほどが歌われ、世界のクリスチャンは、大きな力と励ましを受けています。
この讃美歌250番は、1867年、彼の讃美歌はHymns of Faith and Hope(信仰と希望の聖歌)の中に収められ、発表されたものであります。
作曲者アン・B・スプラトは、イギリスの婦人で、彼女は1829年に生まれ、1866年にこの曲を作曲したこと以外何も知られていません。本当に残念に思います。この曲はKEDORONと言う曲名で知られ、この曲名は主イエス・キリストがゲッセマネの園に向かわれる時に渡られた川の名前であり、十字架の死に向かわれるイエス様のお心を思います時、この曲名の意味は深いものと思われます。この実に美しい讃美歌をお味わいください。
<250>
1 つみのちから せまりて、
おさえがたく なやまし。
されどわれは などか嘆かん、
主ませば。
2 追いはらえど つみとが、
おりを見ては かえり来。
みめぐみもて すくいたまえ。
わが主よ。
3 主よ、たまえや みゆるし、
つみになやむ この身に。
きよき血こそ わがいのちの、
あがない。
4 げにもやすし わがたま、
みひかり満つ こころに。
いさみ進まん 主のまさみち、
今しも。
この讃美歌は、罪とは何か。罪の性質とはと言う面と、罪に対する主イエス・キリストの救いの恵みを、力強く、そして美しく歌っているものです。
ボナーは“主よ、罪に悩むこの身に、み赦し”をたまわるようにと、奨めています。或る人は、自分は罪の問題には関係がないと言われるかもしれません。また、キリスト教は、いつも、罪!罪!と言うので、嫌だという人もあることでしょう。
しかし、そのように言われる人は、本当に罪とは何かについて、罪の性質について知っているでしょうか。自分自身と罪との深いかかわりを、理解しているでしょうか。イエス様の弟子ヨハネは「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(Ⅰヨハネ1:8)と言っています。自分を欺くことなく、自分の心を素直に見つめてください。そうして罪の本質と恐しさを知ってください。聖書は、私たちに、その方法と真実を教えてくださいます。
また、罪について、ウエストミンスター小教理問答書の問14には次のように言われています。「罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、または、これを犯すことである」。罪とは、唯一の生ける真の神様を知らないこと。神の律法を守らないことです。
自分を欺き、神様を信じない人は、まずはじめに、神様のみ言葉であります聖書を読んでください。神の家である教会に行って、まごころをもって、救いの神であられる方を尋ね求めてください。この態度にこそ、神様の救いの尊さと、自分の救われなければならない哀れな状態を知ることが出来るのであります。
ある日律法学者の一人がイエスのみもとに来て、次のように尋ねました。全ての律法の中で、どれが一番大切ですか、イエスは答えて「一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の神である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』。次はこれです。『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ』・・」(マルコ12:28~31)。
しかし、世の始めから今日に至るまで、この2つの大切なご命令を、完全に守った人は主イエス・キリスト以外に、誰一人いませんでした。むしろ、人は全て罪の支配下にあるのです。義人はいない、ひとりもいないのです。
自分は、罪とはかかわりがない、などとは絶対に言えない者が、私であり、あなたなのです。むしろ、罪の下にある者、罪に悩む者です。
1節では、“されどわれは、などか嘆かん、主ませば”と歌っています。それは、主イエス・キリストがお約束なさったように、「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいてくださる」という恵みを信じる者はいただき、また、いただく望みを持っているからであります。
2節では、“追いはらえど・・・”と歌いますように、罪は私たちの心に、いつも挑み迫っています。サタン(悪魔)は、常にその機会を狙っています。しかし、その時にこそ、私たちは、わが主よ、みめぐみもて、救い給えと叫び求めなければなりません。主はわが助け主であられますから。
3節では、カルバリの丘を歌っています。カルバリの丘とは、罪なき主イエス・キリストが、私とあなたの罪の贖い(代償)として十字架の上で、聖く尊い血を流し、ご自身のいのちをささげてくださった丘のことであります。
この十字架の聖き血しおこそが、わがいのちの贖いであることを信じ告白すべきですし、この信仰によってのみ、神様から罪の赦しをいただくことが出来ます。
4節では“いさみ進まん、主のまさみち、今しも”と歌っています。
ダビデは、詩編32編の中で、次のように歌っていました。「私のそむきの罪を告白しよう。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」。神に対して犯した罪が神に赦されるという喜びは、何にたとえることができましょうか。
この喜びをいただく時、はじめて神様からの平安と光を心に受けて、喜びに満たされて、主に清きまさ道を力強く進むことが出来るのであります。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人よ」とダビデは歌っています。あなたも、赦された者の幸いをいただくために、主のまさ道を求め歩んでください。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」