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「ローマ人への手紙」研究」
第72課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・16・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・15・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・5・・
「すべての人に対して善を図りなさい」(17b)(provide things honest in the
Sight of all men) Charles hodgeは英語の欽定訳聖書は、残念ながらここの箇
所の正しい意味を伝えていないと言います。彼によれば、「パウロは私たちに自分自身や家族に対して、正直で誠実な仕方で接しなさいと言っているのではなく、人々の信頼と好意を引き起こすように行動しなさいと教えているのである」。ギリシャ語訳旧約聖書の箴言3:4「あなたは神と人との前に恵みと、誉れとを得る」のギリシャ語は、ここの17節のそれと酷似していると言います。
「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(18)。
この箇所は平和を維持することができないような場合があることを想定していると言えましょう。自国を防衛し戦わねばならない時もあるかもしれないし、また神の真理を護って戦うべき時もあります。「ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように」(ユダ3)。邪悪と戦わないことが裏切りとなるようなときもあります。私たちが必ずしも常に平和を維持することができるとは限りません。
時としては闘うことが義務である場合があります。しかし、戦争は常に悪なのです。時としてやむをえない、また避けられない悪かも知れません 。しかし、とにかく戦争は悪なのです。戦争のための戦争の存在を信じることは出来ませんし、論争のための論争のそれも信じることは出来ないのです。
理想は平和です。何を犠牲にしても平和をではなく、出来る限り平和を、なのです。「出来る限り」ということは、平和よりも貴重で重要なものを犠牲にしても平和をということではないという意味です。ここでパウロはすべての人と平和に過ごすことを語っているのであって、私たちの友人や隣人とだけの平和ではなくて、すべての人との平和なのです。すべての人というのは、私たちを嫌ったり、攻撃したり、害したりする人たちも含んでいるのです。
これこそが謙遜であり、柔和なのです。誤解されたり、臆病とみなされながらも、敢えて平和を図ろうとする謙遜な有機なのです。キリスト者は平和を愛する人たちであると人々に知られなければならないのです。戦争そのものをたたえるものでは決してありません。戦争を憎み、どうしても避けられない場合にのみ、それに頼るのです。個人的関係においては、良心に反して行動することなしに、そうすることができる限り、平和と善意を求めるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」