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さんびか物語・・・25・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・24
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌260番
千歳の岩よ
<神様のみ言葉>
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがさない」。
~詩編62編1節、2節~
讃美歌260“千歳の岩よ”は、世にある讃美歌の中でも最高峰と言われる有名なものの一つであります。それは、主イエス・キリストがなしとげてくださった完全な救いと贖いのみ業が、この讃美歌の中心になっているからでありましょう。キリストの十字架でのみ苦しみとその死と三日後のよみがえりによって、私たちの罪が赦されているという確信が与えられているからであります。
死からいのちへと解放されているキリスト者は、この素晴らしい讃美歌を声高らかに歌わずにはおれないことでしょう。
作詞者オーガスタス・M・トップレディ(1740~1778)は、この作品を書いた時には、まだ36歳の若さでした。彼は戦死したイギリス陸軍将校を父としてサリーのファーナクムで1740年11月4日に生まれました。
信仰深い母親は彼をロンドンのウエストミンスター校に入学させましたが、その後、彼らはアイルランドに移住しなければなりませんでした。彼はそこでダブリンのトリニティ大学で教育を受けました。
1762年に彼は国教会の牧師に任命され、まずデブンシャーのブロードヘンムベリー教会の牧師となりました。また1775年にロンドンのリスターフィルドにかわり、そこでフランスからイギリスへ亡命したカルヴィン主義者のために牧会を続けました。
牧会の他にも多くの讃美歌を作詞したり、宗教的な本を数冊書いています。しかし、彼の作品のまとまったものは、彼の死後まで出版されていませんでした。1794年にそれらのものは、6巻の著書として初めて発表されたのであります。この讃美歌260番はトップレデイが1776年に編集者であった雑誌「ゴスペルマガジン」に初めて発表されました。
トップレデイは生まれつき健康的には恵まれていなかったようで、38歳の若さで結核のため、この讃美歌を発表した2年後の1778年8月11日に召されました。
1954年版の讃美歌260番の曲には、二つの曲がつけられていますが、日本では下の曲とTOPLADYの方がよく歌われているようです。この曲は1830年、有名なトマス・ヘイステングスによって作曲されたものであります。初めて発表されたのは次の年の1831年でロウエル・メイスンとヘイステイングスが編集したSpiritual Songs forSocal worshipに収められていました。その後、特にアメリカでは、この曲は大変な評判になりました。トマス・ヘイステングスについては、讃美歌384番をご参照ください。
イギリスでは、この讃美歌はいつもREDHEAD別名AJALONで歌っています。作曲者リチャード・レドヘド(1820~1901)は、イギリスのミドルセックスのハローで1820年3月1日に生まれ、オックスフォードデマヅダラ・カレッジの聖歌隊員になり、そこでオルガニストのウオールタ・ヴィカリからオルガンを学び、1839年にロンドンのオールド・マ―ガレット・チャペルのオルガニストに任命され、25年間そこで任務をはたしました。
その後30年間、聖メリー・マグダラ教会でオルガニストとして勤めました。また彼は、特に少年聖歌隊の優れた指揮者として活躍し、聖歌隊等のために多くの聖歌集や詩編誦などを出版しましたが、その中には自分の作品や他の作曲家の作品が含まれているため、その作品が彼のものかが分からない場合が多くあるそうです。
この曲が初めて発表されたのは1853年で。Church Hymn Tunes Ancient and Modernという讃美歌集におさめられています。この曲はその巻の76番目にあたるもので、時にはREDHEAD76と言われています。
次に歌詞を共に考えてみましょう。
<260>
1 千歳の岩よ わが身を囲め
さかれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ。
1節で作詞者が歌っている“千歳の岩よ”とは、どのような、また、どなたを意味しているのでしょうか。もちろん、それは、私たちのために裂かれた岩、主イエス・キリストご自身を意味いたします。
使徒パウロは次のように私たちに語ります。「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊を飲み物として飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」(Ⅰコリント10:1~4)。
旧約聖書で26回も“岩なる神”と名付けられた神様は、雲の柱をもってイスラエルの民の長い砂漠の旅路をお守りになりました。天からマナを食物として降らせ、岩から水を出させて彼らの渇きを潤し、たえず彼らを導き守られました。
この神様のイスラエルに対する愛と恵みと同様に、主イエス・キリストも神様のご計画に従って、十字架上で私たちの罪の身代わりとして、そのいのちを捧げ給うたのであります。ですから、私たちはキリストの裂かれた脇の血潮によってのみ、罪から解放され、み霊の洗いと潔めにあずかることが出来るのであります。
2 かよわき我は 律法(おきて)にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず。
2節では、人間の方からは自分の罪を贖う力も方法も全然ないということが歌われています。それは、神様の規準によって人の行為や思いをはかりますなら誰一人として、神様のみ前に義と認められる者はありません。神様に律法を完全に守った人は、世のはじめから今日に至るまで一人もいません。どのような修行、苦行をいたしましても、それをもって自分を救うことは出来ません。神様のみ前にあっては信仰なき行為は無駄なことなのです。今日のよき行いが昨日の罪のつぐないにはなりません。もえる熱心があっても、反省の涙を流しましても、それによっては救われません。
神様の救いの恵み、また救われる条件は、この世の規準や神無き人々の考え方とは、まったく逆であります。慈善事業をしたり寄付をしたりすることによって、天国の門が開かれたりは致しません。偶像崇拝者のように人の力やお金で天国への道は買えないことをはっきりと知って頂きたいと思います。
大切なことは、キリストのみが私たちを救う資格を持っておられること、この主イエス・キリストのみがいのちの門であり、この方を通してのみいのちに入ることが出来るのです。主イエス・キリストを救い主と信じる信仰こそ大切であります。
3 十字架の外に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし。
3節ですが、原作で作者がかさねて歌っているのは、罪人が罪人である自分を救うことには無力であると言うことであります。
“私は神様に何も差し上げるものはない。私の手はからっぽです”と歌っています。私たちの求めることは何でしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架につらなることです。裸の私が義の衣をキリストからいただくことを願うことです。キリストに救いと恵みを求めることを願うことです。キリストに救いと恵みを求めることです。汚れた私たちを主イエス・キリストのみもとに行き、潔められることを乞い願うことであります。
この潔めがなければ、生きる方法も道もないと歌っています。実にへりくだった率直な祈りではないでしょうか。3節はその意味で日本語訳は今少し甘いものになっておりますのは残念なことと思います。
4 世にある中(うち)も 世を去る時も
知らぬ陰府にも 審きの日にも
千歳の岩よ わが身を囲め。
4節で作者は、“世にある中も、世を去る時にも、岩なる神様のみ守りにより頼む”と歌っています。この世での私たちの旅路は、ほんのわずかなものであります。モーセが詩編90編10節で歌っていますように「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と言っています。
人は、この地上でいかに生きるかを問題にいたします。それはそれでよいのですが、十分ではありません。私たちが真剣に考えなければならないことは、飛び去ってからのこと、この世を去ってからのことを考えることによって、はじめて、本当の意味での“いかに生きるべきか”の問に正しい答えを知りたいと思うようになります。
その真剣な求道を、唯一の神様に求める人は、何と幸いなことでしょう。主イエス・キリストを知ることが出来るからです。主イエス・キリストを救い主と信じる人にとりまして、もはや何の心配もいりません。それは、私たちの裂かれた千歳の岩はその贖いと愛をもって、私たちを囲んでいるからです。言い換えますなら、原作にありますように、“私たちは千歳の岩の裂け目にわが身をかくして、神様がたえず私たちのすべての嵐、この世のあらゆる大波より守って下さる”のであります。
あなたも、この唯一の避け所なる神様を、あなたご自身のなくてならない宝、魂の避け所となさってください。まことの神様に立ち帰り、主イエス・キリストの贖いの恵みをあなたご自身のものとしてください。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」