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第72課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・17・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・16・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・12:3、14~21・6・・
「愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(19節)。
「愛する者たちよ」という呼び掛けは、結論を導く重大な内容を述べる時のパウロの手法です。私たちはここで再び報復や復讐を求めるべきではないという厳粛な禁止を見ます。世は不断に復讐について語っているけれども、キリスト信者として私たちはそのように考えるべきではないのです。戦争中の国家であっても復讐を求めるべきではないのです。復讐ということはキリスト信者の思想や精神からは程遠いものです。むしろ、私たちは神の怒りに道を譲り、復讐することは神に委ねることを命じられているのです。
慈しみ深くある共に絶対的に義である神は、悪を行なう者に対しては必ず報復をされるのです。神はその絶対的な正義に従って、悪をなす彼らに報復されるのです。如何なる罪といえども見逃されることはないのです。神は全ての人に対して、悔い改めてキリストにある神の恵みを求めない限り、彼らの業に応じて報いをされるのです。
「むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』」(20節)。
この言葉は箴言25:21,22から取られたものであり、その意味は明らかです。この言葉は、内外を問わず、公然たる敵に対して戦争がなされてはならないということを意味するものではない。戦いが終わった時、私たちはそれと戦うことが私たちの使命であり義務であったところのかつての敵であった人々の福祉を求めるべきであるという意味であります。そうすることによって、彼らを救いに導く魂のはげしい痛みを覚えさせるのです。憎しみに対して愛をもって接するならば、相手に大きな感動を与え、それが原点となり、悔い改めと救いに導く機会となるのです。
「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。まさに、崇高で堂々たる命令です。神の主権的統治を背後に明確に認識したキリスト教の道徳倫理の水準の高さを明瞭に示す命令です。初代教会のキリスト信者たちは、このような教えに立って日々の生活を生きていたのです。彼らは謙遜な勇気について教えたばかりでなく、それに立脚して生きたのです。
悲観論と絶望の中に、人生の大切さの確信を喪失してしまっている世界の中にあって、初代のキリスト者たちは道徳的な聖潔さと真摯さと勇気ある謙遜をもって、人生を生きたのです。彼らはこの世的な尊さと偉大さという観念に無関心であろうとし、また、それに挑戦したのです。世の人々はかれらの高潔な態度と人格に驚嘆したのです。神の恵みにより、私たちも彼らの足取りを辿ることができるものでありたいものです。 J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」