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「キリスト教百話」・・・41
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・8 パウロという人は「わたしにとっては、あなたがたから裁かれたようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と言っています(Ⅰコリント4:3~5)。
「義とされる」ということは『「よろしい」』と認められることですから、パウロは、自分でそういう風に自分を評価しないし、他人からいろんな評価を受けようとそういうことは問題にしていない、というのです(これに比べたらわれわれは何と他人の評価を気にし、また自己評価をして一喜一憂していることでしょうか)。
パウロがこういうことを言うということは、彼に対してのいろんな批判や中傷などが聞こえていたからでしょう。そして、自分でも「こんなことじゃダメだ」とか「これくらいならまあまあ」とかの自己評価をしたことがあったかも知れません。
そういうことを踏まえた上で、「わたしを裁くのは主です」「主がなされる裁きは正しいのですから、それに先立って自他を裁くのは僭越至極で、してはならないことだ」と承知しているのです。「宗教の根本問題は、自分を裁くまことの権威を持っている者を誰に見いだすかにある」と言った人がいますが、パウロはその問題に対して「主がまことの裁き主であられる」という答えを得ているのですから、究極の権威に触れて、そうでないものに捕らわれることなく、これから解放されているのです。
また、自分に取り付いているあらゆる既成の価値観や人間が作り出している思考枠に捕らわれない自由を得ているのです。その根拠は、ことのすべてを判断し評価する主体(裁き主)を、「主」と呼ぶ自分以外の超越的な方イエス・キリストに見出しているからです。正確に言えば、この「主」の方からパウロに「わたしがいるよ」と声を掛けられたことによって、自分のことを評価し究極的に位置づけられる方がおられことに目覚めさせられた、ということが出来ます。「目から鱗のようなものが落ちた」というのはこの時のパウロの偽らざる体験でありまして、今までは自分が主であって自分以外の他を、神をも含めて客体化していたのが、今や、神が主であって、自分を含めて神以外のすべては客体であることに気付かされたということです。
ここで「知っている自分」ではなく「知られている自分」として自分を相対化または客体化することが出来る者とされるということが起こったのでありまして、この主客が転倒されることをもって「救い」というのであります。ここで、モーセの十戒の第一戒「わたしのほかに何者をも神としてはならない」というのが、禁止命令というより、「まことの主はわたしなんだよ」と言って、自分やこの世の富などにより頼んでいる見当違いからの解放を促しておられる主なる神の語りかけに他ならないこと知ることができるように思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年5月のラジオ放送予定>
5月 1日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)
8日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)
15日 西堀則男 (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
22日 西堀則男 (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
29日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師) (放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」