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戦犯者の獄中記 (62) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・10・
―落下傘諜者を追跡して・・3・・
インドに逃亡中のカレン人の兵士が諜者として侵入した恐れもあり、カレン人部落を重点的に捜索することにした。附近一帯は広大なジャングルに被われた山林地帯である。点在しているカレン人の部落は隣りから隣りの家に行くにも2キロも3キロもあるのが普通である。
人ひとりようやく通ることが出来る山路を部落から部落へと目に見えない諜者を求めて捜索すること一週間、それらしい情報があると、夜でも現場に駆け付け情報の確認につとめたが、諜者が確実に潜入したとの情報を得るまでに至らない。捜索隊長である浜田曹長はこの事件は長期に亘ると判断して、長期戦に備えた。
応援のため部隊から来ている10名と補助憲兵2名、通訳もそれぞれの隊に返すことにした。危険を伴うとはいえ、少人数で身軽に行動することが相手にわれわれの行動を察知され難いとの判断から、班を二つに分けて、私と浜田曹長は互いに連絡をとりつつ別々に行動することにした。
浜田曹長はビルマ進駐以来の憲兵であるから日常会話のビルマ語は不自由しないが、私はビルマに来て間もないのでビルマ語を話すことが出来ない。頼りにしていた通訳のセンタンも隊に帰ってしまったからどうしてもビルマ語を覚えなければ身動き一つ出来ないのである。幸い私と行動を共にしてくれる警察官アオンチとチヨミー(裁判で弁護士側の証人であった)の二人は英語が出来る上に少しは日本語を話すことが出来たので、英語と日本語とビルマ語をチャンポンにして会話をする不自由さには閉口した。しかし用件だけは何とか通じ、事が足りるから不思議である。
捜索のためジャングル地帯に点在する民家に宿泊する毎日の生活である。夜になると遠くから虎の吠える声が叫ぶように聞こえてくることは珍しくなかった。
(註1) 焼畑農業とは、山林を焼き払いそのあと陸稲を栽培しては2、3年で移動しては新しい土地を求めて生活する農業である。
(註2) 浜田曹長、昭和20年戦病死 屋 伍長、鹿児島県奄美大島出身、昭和23年1月16日、シンガポール、オートラム刑務所にて戦犯者として刑死。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」