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(広く愛唱されている50曲)・・・25
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌272番
ナザレのふせやに
<神様のみ言葉>
「私たちはみなこの方(イエス・キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」。
~ヨハネの福音書1章16節~
讃美歌272番“ナザレのふせやに”は、私たちの救い主イエス・キリストが、地上におられた時に語られたみ言葉やみ業に対する信仰を中心にして歌われている讃美歌であります。
讃美歌272番の作詞者ジョン・H・グーニーは、1802年イギリスの貴族の子としてロンドンに生まれました。グーニーはケンブリッジ大学で学んだ後、英国教会の聖職となりました。彼は特に、貧しい人たちのために17年間ルターワス教会で奉仕しました。
1847年ロンドンに移り、聖マリア教会、聖ポール大聖堂で牧会を続けました。グーニーは、多くの讃美歌を書き、2巻の讃美歌集を編集しています。その一つは、ルターワス教会の会員のために発表されたものであります。それは、A Collection of Hymns for public worshipでした。その中の一番目の讃美歌が“ナザレのふせやに”であります。
今一つの讃美歌集は、グーニーの奉仕していたロンドンの教会のために1851年に発表されたものです。グーニーは1862年ロンドンで亡くなりなりました。或る文芸批評家は、この讃美歌のテキストは、「純粋な創作ではなく、その4年前に発表されたアン・リッターの歌を焼き直したに過ぎない」と言っています。しかし、よく似た箇所があるとしても、一般にはグーニーの歌詞の方が広まっていますが、グーニーがこの讃美歌の作詞者であることは誤りのないことでしょう。
讃美歌272番の曲ST・PETERSBURGは、1752年ロシアのウクライナに生まれたディミトリー・S・ボルトウニヤンスキーによって書かれたものあります。彼は、はじめモスクワで音楽を学びましたが、その後、有名なイタリアの音楽家B・ガルッピのもとで音楽を学びました。当時、カルッピは、聖ペテルスブルグのカペルマイスターでした。やがて、イタリアから帰ることになりましたが、カタリーナ皇后が留学資金を出してくれることになったためにガルッピに従って、1768年ベニスやローマ、ナポリなど各地でイタリア音楽を研究することが出来ました。
1779年彼は祖国ロシアに帰り、皇后付教会(後の帝室礼拝堂)の聖歌隊指揮者となりました。彼の作品の中には、オペラやソナタなどもありましたが、その大部分は教会用合唱曲であります。
ST・PETERSBURGは、彼が1822年に書かれたミサ曲の一部分から編曲されたものであります。
<272>
1 ナザレのふせやに つかれをいとわで
いそしみたまいし むかしは知らねど
のこりしみわさに わが主としるかな。
2 スカルの井戸べに かわきもわすれて
さとさせたまいし むかしにおらねど
いのちのしみずを わが主にくむかな。
3 カルバリの丘にて 世びとのつみとが
なげかせたまいし むかしは見ねども
あふるるめぐみに わが主をみるかな。
4 エマオのみちにて かたれる弟子に
あらわれたまいし むかしにあらねど
もえたついのりに わが主とあうかな。
5 オリブのやまより みちちのもとへと
かえらせたまいし むかしに住まねど
みくにのひかりに こころもすむかな。
このさんびかのテーマは、あなた(主イエス・キリスト)が、この地上においでになられた時には、あなたにお会いすることが出来なかったが、しかし、今は主イエス・キリストを知り、キリストの溢れる恵みをいただいいているという、はっきりとした信仰の告白であります。
1節では、イエス様が幼少の時に過ごされたナザレのみすぼらしい大工の家が背景になっています。神ご自身であられた主イエス・キリストは、人間をその罪から救い出すために、ご自身を低くされ、人間となられました。そうして飢え、渇き、悩み、苦しみ、否、十字架の死おも味わいたもうたのです。また、そのみ苦しみの中にありましても、素晴らしいみ業にいそしみたもうたのは、ナザレのイエス様でした。グーニーは“むかしは知らねど、のこりしみわざに、わが主としるかな”と歌っています。
それは、キリストを実際に見ることのできない彼には、そのなされたみ業によってキリストが彼の心の内になさった、救いのみ業によって、キリストは、わが主である、と知ることが出来ると歌っています。
2節では、サマリヤのスカルの近くにあった、ヤコブの井戸を歌のテーマにしています。新約聖書のヨハネの福音者4章5節~26節をお読みください。
イエス様は旅の途中、井戸のかたわらに腰を下ろしておられました。その時、水を汲みに来たサマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください」と言われました。しかし、当時サマリヤ人とユダヤ人とは、付き合いがありませんでしたので、女はイエス様の求めを断りました。イエス様は女の道徳的にも堕落し自分の心の渇きを認めていなかったのを知って“生けるまことの水”をお示しになられました。
その“生ける水”とは、目に見えない、霊的なものです。キリストを信じる人の心を、“洗いきよめる”水であり、この水をいただくことによって、その人の心に内で、泉となり、永遠のいのちを約束する水であります。
私たちのまわりにも、自分の心の渇きを知らずに、永遠の滅びの道を歩んでいる人が多くあります。この滅びの道より救って下さるお方は、主イエス・キリストであります。
いのちの水の源であられるお方、昔も今も信じる者は、イエス・キリストから、いのちのしみずを汲むことが出来るのであります。
3節では、カルバリの丘に移ります。イエス・キリストはこの丘の上で、世の人々の罪のために、身代わりとして、十字架の死をとげられたのであります。私たちが、もしその残酷な死を見ることが出来ますなら、本当に自分の罪の深さを知り得たかもしれません。しかし、その死を目撃しなくても、その贖いによってイエス様の与えたもう溢れるばかりの恵みを、今いただくことが出来ます。あなたはその恵みをいただいていますか。
4節では、エルサレムから11キロ離れたエマオという村への道に変わります。時にイエス様が死から甦えられた日曜日、最初のイースターであります。その日、イエス様の甦りを疑っていた二人の弟子がエマオに行く途中に、イエス様ご自身が二人に近づいて、彼らと共に道を歩いておられました。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエス様であることはわからなかったのです。(ルカ24:13~16)。
イエス様は「歩きながら話しあっている」その二人に尋ねられました(17)。「私たちの心はうちに燃えていたではないか」と言って、すぐさま、エルサレムにいた他の弟子たちのところへ、帰って行きました(32~33)。私たちも燃える信仰と祈りの中に主イエス・キリストとお会いできるのです。しかし、疑いの心であってはいけません。
5節では、オリブの山へと私たちを導きます(使徒1:12)。イエス様が、み父のもとにお帰りなる昇天の日―勝利の日―であります。イエス様は弟子たちに、最後のご命令と教訓とをお与えになってから、手をあげ祝福しながら彼らをはなれて(ルカ24:51)雲につつまれて見えなくなられました(使徒1:9)。
イエス様のご昇天を自分の目で見た弟子たちは、どんなに幸せであったでしょうか。しかし、この讃美歌を通して、今一度その出来事の恵みを味わう私たちも幸せであります。このイエス・キリストの恵みを受けた昔の弟子たちと同じように、私たちもみ国の光に住む者でありたいものです。
「あなたがたは、以前はやみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5:8)。
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=この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」