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岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第21章 宗教的礼拝および安息日について・・4・・
7 一般的に、正当な割合の時間を神礼拝のために聖別するということが自然の法則であるように、神は、み言葉において、すべての時代の人に義務を負わせる成文的・道徳的・永久的な命令によって、安息日のために七日のうち一日を特に定めて、神に対しきよく守るようにされた(1)。それは世の初めからキリストの復活までは週の終りの日であったが、キリストの復活以後は週の初めの日に変わった(2)。これは、聖書で主の日と呼ばれ(3)、キリスト教安息日として世の終りまで継続されねばならない(4)。
1 出エジプト20:8,10,11、イザヤ56:2,4,6,7
2 創世2:2,3、Ⅰコリント16:1,2、行伝20:7
3 黙示1:10
4 出エジプト20:8,10、マタイ5:17,18(*)
*出エジプト20:8,10をマタイ5:17,18と比較
七 ここは前項の後半に記された特別な礼拝に関して、ことに「神がみ言葉または摂理によってそこに招かれる時」について、本項は取り上げている。
十戒の第四戒の安息日条項の解釈はなかなか論議が尽きない。教理問答の答えを参照する必要がある。カルヴァンは礼拝論で旧約と新約の本質的連続性を主張する程には安息日規定の「七日のうち一日」という割合にこだわらない。清教徒信条と呼ばれる本告白では、この点ははるかに旧約との同一性を重んじている。
日曜日安息は聖書的にはキリストの復活に起因し、また摂理的自然的には、ローマ・カトリック教会暦などとも無関係ではないが、週二日休日制が実現しつつあるとしても、わたしたちは、土曜礼拝に切り替えることを正当とは判断できない。日曜日と呼ぶ習慣は、むしろ主日と改める方がより聖書的ではないだろうか。
8 それで、この安息日は、人々が自分の心を正当に準備し、その日常の用務をあらかじめ整理したのち、この世の職業や娯楽についての自分の働き・言葉・思いから離れて、まる一日きよい休息を守るのみでなく(1)、神礼拝の公的私的営みと、やむをえない義務と慈善の義務とに、全時間従事するときに、主に対してきよく守られる(2)。
1 出エジプト20:8、出エジプト16:23,26,29,30(*)、出エジプト31:15-17、
イザヤ58:13、ネヘミヤ13:15-22(**)
*出エジプト16:23,25,26,29,30が正しい
**ネヘミヤ13:15,16,17,18,19,21,22が正しい(1648年(第3版)では、13:20を含まない)
2 イザヤ58:13、マタイ12:1-13
八 どのようにしたら、主に対して安息日をきよく守れるか、という問題に関する非常に具体的な理解についての告白文である。
「全時間従事」という一句は重要である。しかしこの点での引照聖句であるマタイによる福音書12章1節~13節は、むしろ主イエスがいかに「父が今に至るまで働いておられる、だから私も働くのだ」と主張されたのと同一方向を示すように受けとれる。
律法主義に陥らないで第四戒を日曜日に適用することは、なかなか難しい。むしろ6項の後半を中心に「公同集会」出席の厳守を大切にし、また、礼拝(神への愛)と慈善(隣人への愛)との深い関係に留意する方向に熱心を注ぐことを私は考えている。
しかし告白本文に修正が加えられていない現状では、本文に忠実な受け取り方を拒否するわけには行かない。良心の自由に従って、各自の理解の幅を認めるべきであろう。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」